■この間妻がふとこうつぶやいた。
「あの人はああいう人や」「あんたはそういう人や」
「そういう言い方は、何か違うという気がする」と。
確かにそれは、「その人をそのままに見る」法蔵菩薩の眼差しと似ているようだが、何かが根本的に違うと私も感じる。そのことについて考えていた。
■そのように言う時の眼は、ブーバーのいう「我とソレ」の眼だ。第三者的な、突き放した冷たい眼だ。
「その人をそのままに見る」というのは、そういう眼じゃない。それとは真逆で、その人を、ブーバーのいう「我と汝」の眼で見る。
■家に猫が三匹いる。時々餌を食べに来る外猫も一匹。合せて四匹。みんなそれぞれ個性があって、それぞれが可愛いい。外の猫も、孫は「キング」と呼んで可愛いがっていた。
■私は、遠藤周作の『沈黙』をいつも鞄の中に入れている。
『沈黙』の終りの方に、次のような、ロドリゴ(キリシタン弾圧下の日本に潜伏し捕えられたカトリック司祭)と、心中のイエスとの対話がある。
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」
「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」
(新潮文庫『沈黙』294頁)
イエスがユダに言った「なすことをなせ」とは、その後ユダは、イエスを密告し大金を手にし、自責の念にさいなまれて首を括ることになる。そのことを指している。つまり、イエスは、自分を密告し売ろうとしているユダに向って、「なすことをなせ」と言われたのだ。最期、自責の念に苦しんで首を括ることになるユダに向って、そう言われたのだ。
それはユダを突き放したのではない。「それが汝の業なら、汝の業をなせ。業は、天体の運行と同じく、何人も如何ともすることが出来ない。だが、私は汝と共にその業を受けていくから。安心して行きなさい。」
こう言われたのだ。そう私はいただく。これは、正に法蔵菩薩の名乗りだ。これが、南無阿弥陀仏の「南無」の眼だ。
こうして、法蔵菩薩が、われらの深い所から生まれてくださって、「今、ここに、こうして在る」われらの現在地を、それがたとえどんなに受け入れ難いものであろうとも、「これが私であります」と名乗って、「そのままに」受け止めてくださるのだ。
■「その人をそのままに見る」―それは、どんな人も、そんな法蔵菩薩が生れて、それぞれの業を生きている人として見る。そういう眼差しの中で、自己を拝み、他の人拝んでいく。そういう眼差しの世界のことをいうのではなかろうかと思った。 (2026年1月31日記す)