• 悩み多きわれら、親鸞の教えに「自身」を聞かん

法話記録「生まれ甲斐について~もう一人の自分(法蔵菩薩)にあう~」

2022年4月3日~4日「勝福寺春季彼岸会」で宮岳文隆が法話した際の第二日目法話の抄録です

                                   

「孤独の中を生きてきた」

 フェイスブックに「寺院掲示板の法語」というコーナーがあって、先日、「自分自身のいないところに、仏さまはいない」(平野修師)という法語が紹介されていました。それは言い換えれば、今自分自身のいる所に仏さまはおられるということです。どういう自分であろうとも、その自分のところにこそ仏さまはおられるのです。それ以外のところにはおられないのです。その仏さまが、法蔵菩薩という仏さまです。

 東尋坊には電話ボックスがあって、中に電話番号が張ってあるそうです。飛び込む前にそこに電話する人がいるかもしれない。そういう場があるということは、大事なことですね。

私はある傾聴のグループに所属していて、何十年と孤独の中で生きてきたという女性から電話がありました。身内は誰一人関わりを持とうとしない。母親すらも着信拒否している。友達もいない。精神科へ何十年も通っている。そういう歩みを延々と話されて、「こういう私に何か言って下さいませんか」と発言を求められたんです。急にそう言われ、思わず「そういう状況の中を、よくぞこれまで生きてこられましたね」と言いました。それが正直な実感だったんです。そしたら、「今までそういうふうに誰からも言ってもらったことがない」と言われました。 

人間は、辛い思いを自一人分の中に溜め込んでおったら危ないんです。共感を持って聞いてくれる人に、自分の辛さを話して受け止めて貰うということがどうしても必要です。それで「あなたは、そんな辛い状況を抱え、誰一人それを聞いてくれる人がいない孤独な中で、よくぞ生きてこられましたね」と申しあげたんです。

「もう一人の自分がいる」

 電話相談を受けていると、話を聞いてくれる人が一人もいない、と言う人がいっぱいいます。私はそうした人に、「一人いますよ。それはもう一人の自分なんです」と応えています。どんな人にも、もう一人の自分がいて、すべてを「辛かったなあ」といって全部受け止めてくれるんです。それが、深い所におられる法蔵菩薩です。そのもう一人の自分である法蔵菩薩に向かって、自分のどんな醜いことも、辛いことも、洗いざらい聞いてもらったらいいんです。

 実は、私もやってるんです。日記という形で。十代の頃から。毎日つけるというのではないけれど、もっていき場のない思いを全部書くんです。自分のすべてを、 醜いものも、汚いものも、嬉しいことも、辛いことも、書くという形で聞いてもらうんです。

 そういうもう一人の自分は、誰の中にもいるんです。そのもう一人の自分と対話する。自己対話です。どんな自分にも向き合ってくれる法蔵菩薩との対話です。その一つの形式として、私には日記があるわけですが、別にそれは日記じゃなくてもいいんです。

その人は、始めはふてくされたような声だったのですが、段々元気な声になってきて、「私にもそれならできそうだからやってみます」と応えてくれました。ちょうど12月の寒いときでしたが、電話を切る時、「風邪ひかないように気をつけて下さい」という言葉までかけてくれました。

(ぞう)(ぎょう)をも捨てず」

 親鸞聖人は『唯信鈔文意』の中で、「(ふん)は、わかつという、よろずの衆生ごとにとわかつこころなり」〔聖典548頁〕と述べておられます。十把一からげに包み摂るというのではなく、ひとりひとりに分けいってことごとくたすけみちびきたまう」というのです。それが法蔵菩薩です。法蔵菩薩は、みんな違う業を生きている我々が、阿弥陀様の大悲を、一人残らず細やかにいただいていく一つの手だてなんです。漏れる人がいない、漏れる出来事もない、漏れる心の思いもない。どんな思いの中で苦しんでいても、そこに法蔵菩薩はおられるんです。

 父親の十三回忌の法事を勤めてくれた隣寺の御院家さんが、「最後に念仏が残った」と言った父の言葉が心に響いたという法話をしてくれました。私もありがたく聞かせていただいたんですが、その夜思ったんですよ。親鸞聖人には「雑行を捨てて本願に帰す」という言葉がある。いろんな雑行を尽くしたが、全部破れて、最後は念仏に帰したという意味です。しかし、待てよ、と。じゃ捨てられた雑行はどうなるのだろうかと。法蔵菩薩は、よろずの衆生ごとに分かって救い遂げていくわけですから、雑行であっても、単にゴミ箱に捨てるような感じではなくて、それはそれとして受け止めて、私が本願に出遇う大事な縁の一つとして尊んでくださるんじゃないかと、そんなことをふと思いました。私たちは、非行に走ったり、犯罪を犯したりすることもある。つまらん愚痴やら、汚いものをいっぱい持っている。それら一つ一つに、「そうか、そうか」と言って、捨てるというかたちではなくて、受け止めて、それを本願に出遇う縁にしてくださる。そういう法蔵菩薩が、私たちの中には、誰の中にもおられるんじゃないでしょうか。

「過程を聞いていく」

 朝日新聞に「悩みのるつぼ」という人生相談があります。ある時こんな相談が出ていました。相談された方の主人が、息子に野球を強要している。子どもは、本当はしたくないけど、泣き泣きやっている。子どもが可哀そうだから相談者が止めようとすると、ケンカになる。なんで主人がそんなことをするかというと、高校生の時プロを目指して挫折したので、その夢を子どもに託して真剣になっている訳です。それで相談者の言うことをどうしても聞こうとしない。あまりにも子供が可哀そうなので、もう離婚するしかないんだろうかという相談でした。

 そのときの回答者(清田隆之氏)は、「あきらかにそれは虐待で、別れることも一つの選択肢かもしれないが、その前に、ご主人の心を聞かせてもらったらどうだろうか。そこから対話の糸口が開けてくるかも知れない」と書いておられました。私は、そうだなと思いました。今そうなっている主人の結果だけを見るのではなくて、そこに至るまでの過程を聞いていく。主人にも辛い経験があった訳で、その過程を聞いてもらえたら、もしかしたら変わるかもしれないと思いました。

 「傾聴」の研修会で、死にたいという電話を受けた時どうするかというテーマで座談会がありました。そのまま傾聴するのがよいのか、それとも、思いとどまるように話すのがよいのかと。正解はないけれど、「死にたい」という思いも、「そうだね」と聞いていく。その人にとっては、聞いてもらえたということが大事なんじゃないかと私は思うんです。

 「怒りを抱きしめる」

 先日亡くなったティク・ナット・ハンというベトナムの僧のことを、ある方がフェイスブックに投稿していました。ベトナム戦争の最中、ある村がアメリカの爆撃で全滅した。指揮官はそれを正義のために行ったと言った。ハンさんは、それを聞いて強い怒りをおぼえた。怒りを持て余し、持って行き場のない怒りの中で、ひたすら「怒りを抱きしめ、怒りの面倒をみる」という実践をしたそうです。それをずっと続けていくうちに、ただ許せないというだけではない世界を少しずつ感じるようになったと話されたそうです。

善悪の世界しかなかったら、もう切り捨てるしかないわけですけど、「怒りを抱きしめ、怒りの面倒をみる」と。 まあ聞くということでしょうか。まさに法蔵菩薩という方はそういう方だと思うんです。どういう心であっても見落とさない。醜い心も、黙って抱きしめる。抱きしめるとは、そうなった過程を聞いていくということでしょうか。

「法蔵菩薩の捨て方をいただく」

 親鸞聖人は、『教行信証』「信巻」の「至誠心釈」の中で、「不善の三業は、必ず真実心の(うち)に捨てたまえるを(もちい)よ」(聖典215頁)と書いておられます。「不善の三業」とは、私どもの虚偽に満ちた醜い心や言動のことです。それを私の心で捨てるのではない。法蔵菩薩の真実のお心をいただいて捨てなさいと。決して自分の心で捨てるのではないんだよと。どうして親鸞聖人は、そういう無理な読み方までしてそのことを強調されるかというと、私どもが自分の心で捨てるという場合は、どうしてもそういうものを嫌悪することしかできないからです。拒否したり、叩いたりすることしかできない。それが私どもの捨て方です。それというのも、私どもは、それを捨てようと思えば捨てられと思っているからです。ところが、法蔵菩薩は、私どもの不善の三業は、本当は私どものコントロールを超えた宿業によるものだということがよくわかっておられるのです。山を動かそうとしても、それは無理でしょう。それと同じだということがよくわかっておられるのです。それで、そういうものも決して毛嫌いせずに、それと向き合って、その罪を痛んで、悲しんで、「辛かったな。ご苦労さま」と手を合わせて、受け止めて歩んでくださるのです。どこまでも運命を共にして歩んでくださるのです。そういう捨て方です。つまり、捨てるといっても、自分の外に排除するのではなくて、その罪業の身と一つになって、責任を負って歩んでくださるということです。どんな私にも向き合ってくださるということです。

 それが法蔵菩薩の願心、お心、魂です。その魂が、南無阿弥陀仏の名号となって、久遠劫の昔から私を呼び続けて、待ってくださっている。その法蔵魂こそが、私の真の主体なんです。

「生まれ甲斐」という講題を掲げさせていただきましたが、この法蔵魂に出遇うということが、人間として生まれてきた「生まれ甲斐」だと思っています。

「二河譬」

本堂の内陣の正面に阿弥陀様のご本尊が立っておられるでしょう。『二河譬』(二河白道の譬)で言うと、阿弥陀様は西の岸から「汝一心に正念にして直ちに来たれ」と呼ぶんですよ。それを、親鸞聖人は、「本願招喚の勅命」と言っておられます。無条件に来たれと呼ぶ声です。「直ちに」ということは「そのまま」ということです。あなたは今いろんな問題をかかえておるかもしれんけど、そのまま来いと。「来い」ということは「帰れ」ということです。「帰ってこいよ、待っているよ」と。それが、南無阿弥陀仏の名号となって私どもを呼び続けている法蔵菩薩の呼び声です。

西の岸からというと、十万億土の遠い所からと思うかもしれませんが、実は、私どもの宿業の身の深い所からということです。つまり、それが真実の自己自身の声なのです。先ほど話した「もう一人の自分との対話」というのは、この真実の自己自身との自己対話ということです。

 それから、本堂のご本尊の両脇にあるのは、私どもに先立ってこの呼び声を聞いてくださった先輩たちの像や掛け軸です。親鸞聖人、蓮如上人、七高僧、前住職。皆、行き詰まって、この呼び声に出遇っていかれた人たちです。その先輩方が、「私はこの呼び声を聞かせてもらった。どうかあなたも聞かせてもらいなさい」と言って私に勧めてくださる。それが先輩方の発遣の声です。

 この先輩方は、実は友なんです。人間と人間との関係で一番望ましい関係は、友としての関係なんですね。上下がない。平等で、お互いに尊敬しあう関係です。お釈迦様も友ですよ、親鸞聖人がおっしゃっておられます。「他力の信心うるひとを うやまいおおきにによろこべば  すなわちわが親友(しんぬ)ぞと 教主世尊はほめたまう」(聖典505頁)」と。他力の信心うる人を、お釈迦様の方が敬われ、大変喜ばれて、私の親友だとほめてくださるんだと。

  私の真の主体であるところの法蔵魂は、修行した聖者にしかない魂ではなくて、実は、一切衆生の身の深いところに、平等に、本能として流れている魂です。でも、私どもの自我によって覆われていて、自我の努力によっては決して出遇うことができないのです。しかし、私に先立って、行き詰まって、その行き詰まりの中で、「行き詰っているそのあなたを待っている。帰ってこい」という法蔵菩薩の呼び声を、私に先立って聞いてくださって、「あなたもこの法蔵菩薩の呼び声を聞いていきなさい」と勧めてくださる先輩方に教え導かれて、始めて私も、私の真の主体であるところの法蔵魂を呼び覚まされ、その魂を真実の自己としていただいて生きていくことができるようになるのです。それが私にとっての「生まれ甲斐」だといただいています。

もう時間になってしまいました。不十分ですが、これで終わります。