• 悩み多きわれら、親鸞の教えに「自身」を聞かん

新着情報

ブログNo.15最後、最終の自己受容の声

南無阿弥陀仏 この写真は、自分の良心の脅迫に追い詰められて、生きていけなくなった小笠原亮一師が、『ルカによる福音書』に記されているイエスの眼差しに出遇って、生きる意欲を取り戻した際の手記です。私は、この手記を読みつつ、こ ...

続きを読む

ブログNo.14「表層の自我と深層の法蔵魂」

■この写真は、清沢満之師の孫で、後に暁烏敏師の孫暁烏宣子さんと結婚して暁烏敏師のご寺坊明達寺に入寺された暁烏哲夫師の著書『信流記』の130頁~131頁の写真です。写真では少し読みにくいかも知れませんので、次にこの文章を書 ...

続きを読む

ブログNO.13「そんでええがや」の声が聞こえるとき

■清沢満之師は、絶筆『わが信念』の中で、「如来は私の一切の行為について責任を負うて下さる」と言っておられます。そして、その如来は、外におられるのではなく、「私の信念の本体である」と言っておられます。つまり如来は、われらの ...

続きを読む

ブログNo12.「我(が)の迷いは果して消せるのでしょうか?」

【大石法夫師書信輪読会記録No.9「長生不死の神方」よりの抜粋】(※ファイルの全文はブログの最後にリンクを貼付しています) ■(16頁)我(が)の迷いを軽くみている。その我(が)は久遠劫の歴史をもった底知れないものです。 ...

続きを読む

No-11.称名(名号を称えること)と聞名(名号を聞くこと)について

・阿弥陀さんは、私に「名号を称えなさい」と言っておられるのだろうか? ・阿弥陀さんが名号を称えて欲しいと言われたのは、私にではなく、十方世界の無量の諸仏たちに対してである。 ・私に対しては、私(阿弥陀さん・法蔵菩薩)のあ ...

続きを読む

No10.如来がおられるから信じるのか、信じるから如来がおられるのか?

【この文章を書くに至った経緯】 私は、昭和49年4月大谷大学に入学し、伝道部に入部しました。しかし、入部したその秋、尊敬していた先輩たち3名が、主だった他の部員との方針の違いから伝道部を脱会し、任意グループ「感動舎」を新 ...

続きを読む

No9.なぜ本願文に「唯除の文」があるのか

■本願文にどうして唯除の文があるのか?  『無量寿経』の第十八願文には、五逆罪と誹謗正法罪を犯した者は救いから除くという、いわゆる唯除の文が置かれています。古来多くの先達がこのことに悩まされてきましたが、結論から言うと、 ...

続きを読む

No8 – 法蔵菩薩の眼差しによって生きる力を回復する

■【始めに】  私は、前回心光寺のホームページに投稿したブログNo7の最後に、次のように書きました。    「自分自身の自我の闇に行き詰って、生きる意欲さえ見失っていた者が、法蔵菩薩のこの呼び声が聞こえてき   たことに ...

続きを読む

No7-「すなわちわれらなり」の呼び声

■親鸞聖人が、『尊号真像銘文そんごうしんぞうめいもん』の中で「すなわちわれらなり」と述べておられる言葉があります。短い言葉ですが、非常に重要な言葉で、私は、この言葉の中に、親鸞聖人が法然上人から受け取られた念仏の救いの内 ...

続きを読む

No6-他人によって傷つけられることのない自己

―清沢満之先生の精神主義にふれ得たことを感謝す― 【(このブログを書くに至った経緯)・・・私は、昭和44年4月に大谷大学に入学し、伝道部に入部した。しかし、入学したその秋、尊敬していた先輩たち三名(新原忠男、夷藤保、浦田 ...

続きを読む