• 悩み多きわれら、親鸞の教えに「自身」を聞かん

境内の石碑に刻まれている歌

■心光寺の境内入口に石碑が建っています。過日、遠方に住んでおられるあるご門徒さんから、この石碑をホームページにアップして、そこにどういう言葉が書かれているか、またその言葉の意味を書いて欲しいというご要望がありました。

■これが、その石碑の写真です。確かに、石に苔が生え、文字の部分の白いペンキも薄れて、判読しづらくなっています。よくぞ、大事なご要望をしてくださったと感謝しているところです。。
 この石碑に書かれている文字は、次のような歌です。
   「なむ佛の
     弥陀のめぐみゆ 知りそめぬ
      ただのこころに
       生くるてふこと
               信國  淳 」

■ところで、この石碑は、平成11年3月に、心光寺の庫裏の建替えと境内整備を行った際に、以前からあった庭石を再利用して、設置したものです。当時、私は、大石法夫先生に出遇う前で、精神的な彷徨のさ中にある頃でした。そういう私にとって、それ以前から、心にひかれてよく読んでいた本の一つに、京都大谷先週学院の院長をされていた信國淳先生の書物があります。私は、大谷専修学院の卒業生ではありませんので、信國先生にお出遇いしたことはありませんが、ご著書をいくつか読ませていただき、心に響くものを感じていたのです。
 この歌は、実は、知り合いの書家に揮毫していただき、それを業者に頼んで刻んでもらったものですが、どういう手違いなのか、一カ所だけ、元の言葉を間違えていて、設置後そのことに気づきました。気づいた時点ですぐに修正工事をすべきだったのですが、誠に申し訳ないことに、そのままになって今日に至っています。 
 元の歌は、次の通りです。
   「なむ佛の    
     み名のめぐみゆ 知りそめぬ     
      ただのこころに       
       生くるてふこと」
 石碑に「弥陀」とある所は、「み名」が本当です。「弥陀」と「み名」は、結局同じような意味だとも言えないことはありませんが、受けとめた時の感じがだいぶ違ってきます。
 「弥陀」というと、そういう仏さまがどこかにおられるようなニュアンスになります。しかし、親鸞聖人が、「弥陀仏は、自然じねんのようをしらせんりょうなり」と書かれていますように、阿弥陀仏といっても、そういう仏さまがどこかにおられるのではありません。阿弥陀仏とは、われらに、願力自然がんりきじねんの働き、すなわち、われらの身を決して捨てずに、どこまでも身を一つにして歩もうと誓われた法蔵菩薩の本願の働きが、つねに働いていることを知らせる為の教え、呼びかけなのだとおしゃっています。
 一方、「み名」とは、「南無阿弥陀仏」というお名号のことです。お名号とは、名告なのり、呼びかけのことです。上に書いたように、われらの身を決して捨てずに、どこまでも身を一つにして歩もうと誓われた法蔵菩薩の本願の力が、つねにわれらの身の内に働いていることを、われらに呼びかけ、名告っているのです。
 その「南無阿弥陀仏」の「み名」の呼びかけを、信国先生は、恵みと感じられたのでしょう。行き場を見失って途方にくれているわれらにとって、「南無阿弥陀仏」という「み名」の呼びかけは、まさに恵みです。ですから、この歌は、「弥陀」ではなくて、やはり「み名」でなくてはなりません。これを書きながら、これは小さな間違いではないなということを、改めて感じました。時期をみて、修正依頼をしなければならないと思っているところです。

■さて、この歌の意味は、次の通りです。
   「『なむあみだぶつ』という仏さまの御名みなのめぐみによって 
      知りはじめるようになりました
        ただの心に 生きるということを」
 
 これを、私なりにもう少し詳しく意訳してみると、次のようになります。
 
 「私は、長い間、どう生きることが本当に意義ある生き方なのかと、人生の意義付けを求めて、ああでもない、こうでもないと、さんざん求め回り、迷い回って、結局、どう生きたらいいのかを見失い、行き詰ってしまいました。その私に、ある時、師との出遇いを通して、『なむあみだぶつ』というお念仏の呼び声が聞こえてくるようになりました。そして、私も、お念仏をもうすようになりました。こうして、お念仏の生活を日々続けていくうちに、そのお念仏の呼びかけの恵みによって、今まで人生の意義付けばかりを求めてがんじがらめになっていた私に、善し悪しの心を捨てて、ありのままの自分をそのまま受け止めて、ただ生きる。善し悪しを言わずに、ただ生きる。そういう道があったことを、次第に知り始めるようになりました」 以上。

■今振り返れば、人生の価値付けの次元で喘いでいた当時の私にとって、信國先生のこの歌は、人生には、価値付けよりももっと根底に、万人に平等な存在の大地があり、そこに帰らない限り、われらの魂に真実の安らぎが与えられることはないということを、微かに感じさせてくださる歌であったような気がします。
 お念仏は、「あなたが、たとえどういうあなたであろうとも、私は、そのあなたを捨てず、そのあなたと運命を一つにして、そのあなたを生きる。だから、安心して、そのままのあなたに帰り、そのままのあなたを、ただ生きよ。意義付けを捨てて、ただ生きよ」という阿弥陀仏の呼びかけであり、それが「なむ佛のめぐみ」ということでしょう。その「なむ佛のめぐみ」によって、始めて、価値ある人生でなけれ生きるに値しないと、自分の作った価値観で自分自身を痛めつけていた私が、価値以前の存在の大地の広さにふれ、自分を投げ出して、他の人々の存在も、価値観を超えて見ることができるようになるのです。そういうことを、この歌は、私に教えてくださいます。
                                      (2020年1月29日記)