• 悩み多きわれら、親鸞の教えに「自身」を聞かん

No9.なぜ本願文に「唯除の文」があるのか

■本願文にどうして唯除の文があるのか?

 『無量寿経』の第十八願文には、五逆罪と誹謗正法罪を犯した者は救いから除くという、いわゆる唯除の文が置かれています。古来多くの先達がこのことに悩まされてきましたが、結論から言うと、阿弥陀仏の救いの自覚内容がこの唯除の文によってあらわされているということになります。

 通常私どもは自分自身を善人と思っていますが、阿弥陀仏の大悲によって自分自身の本質を照らされてみると、五逆罪と誹謗正法罪という救いようのない大罪を抱えている身であることが知らされます。ただし、大事なことは、それは自分の自覚なのではなく、阿弥陀仏ご自身の自覚だということです。自分の自覚なら絶望でしかありませんが、阿弥陀仏が、「あなたは自分を善人と思っているかも知れないが、私の目から見れば、自分のことしか考えられないエゴイストなのです。でもそれはあなたがどんなに避けようと思ってもどうしても避けることのできない宿業です。私はそのことがよくわかっています。だから私はあなたのその罪業を決して責めず、あなたが自分の罪業でありながら引き受けることもできずに苦しんでいるあなたに代わって、私はその罪業を私自身の罪業として自覚し、罪業の自覚そのものとなってあなたの中に生れ、永遠にその罪業の身と私の身を一つにして歩んでいきます。」と呼びかけています。その同体の大悲の呼びかけが唯除の文なのです。だから、唯除の文は、私に対する阿弥陀仏の救いの呼びかけなのです。曇鸞大師や親鸞聖人は、この文がなかったら自分自身の救いはなかったと考えておられたに違いありません。

■五逆罪と誹謗正法罪はどのような関係にあるのか?

 では、五逆罪と誹謗正法罪という二つの罪の関係は、どのようになるのでしょうか。曇鸞大師は、『浄土論註』の中で八番の問答によってこのことを尋ねています。いわゆる八番問答と呼ばれているものです。親鸞聖人も、この問答を『教行信証』「信巻」の終りに引文していますから、曇鸞大師と同じ考えであったことがわかります。

 結論から言えば、誹謗正法罪の方が五逆罪よりもはるかに重い罪だということが述べられています。すなわち、五逆罪は阿鼻地獄一劫の罰で尽きるが、謗法罪は一劫尽きれば転じて又他方の阿鼻地獄に至り「かくのごとく転々して…仏出ることを得る時節を記したまわず」という恐ろしいことを書いています。つまり、謗法罪は、永遠に助からない罪だということを強調しているのです。これは曇鸞大師や親鸞聖人自身の自覚内容です。そして、後に述べますが、これが『歎異抄』で言われているところの「他力をたのみたてまつる悪人」の自覚内容です。

 さて、そのことに対して問いがあって、「謗法罪は、別に誰かに対して危害を加えるわけではない。それに対して、五逆罪の場合は、実際に人を殺傷してしまったりする。だから五逆罪の方が罪が重いではないか」と問うています。もっともな問いですが、それに対して、曇鸞大師は、「あなたはそういうふうに言うが、五逆罪の元に謗法罪があるということを知らない。謗法罪は誰の中にもある本質的な罪です。それが元になって五逆罪を起しもするし、またたとえ起さなくても、その罪は誰もが抱えている罪なのです」と答えています。

 ただし、この謗法罪は、阿弥陀仏の呼びかけによらなければ決して分からない罪です。五逆罪の場合は、道徳的にも罪だということは誰にも分かります。しかし、謗法罪は、阿弥陀仏に呼びかけられて初めて知らされる罪です。普通はそれが罪だということは誰も思わないし、自分でも思っていないのです。教えを聞く中で、初めてそれが罪であり、しかも最も根本的な重罪であるということを知らされるのです。

 そうすると、私どもはそれを改めないといけないと言われているように思ってしまいがちです。しかしそうではないのです。阿弥陀仏は、その罪の重いことを知らせるけれども、それを改めよとは決して言われないのです。なぜなら、その罪は、改めようとしても改められるような底の浅いものではないということを、阿弥陀仏はよく分かっておられるからです。それは、山を動かそうとしても、動かすことができないのと同じです。

 私どもは、一人残らずその重罪を抱えています。それが誹謗正法の罪です。唯識教学では、これを倶生起(くしょうき)の我執と教えています。我執にも、分別記起の我執と倶生起の我執とがあり、分別起の我執は、生まれて後に習得する自我意識の我執であるのに対して、倶生起は、生まれる以前から、この身の奥深くに植え込まれている無意識の潜在的な我執です。私どもは、一人残らず生まれる前からそういう根本的な我執を抱えているというのです。

 親鸞聖人は、『教行信証』「信巻」の「至誠心釈」の中で、全ての者は、どんなにうわべは真面目そうな格好をしていても、表面の身口意の三業の底に悪性を抱えた身であると述べています。(私どもが通常「内」と考えている意業も、善導大師や親鸞聖人は、「外」「表面」に過ぎないと言っています。そこが恐しい所であり、また鋭い所です)。その悪性というのが、倶生起の我執です。表面に表れた身口意の三業の態様は千差万別であっても、その身の底に等しくこの根本我執を抱えています。その点において、聖者も極悪人も皆平等なのです。それが誹謗正法の罪なのです。そのことを曇鸞大師も親鸞聖人も言いたかったのです。

 そして万人が抱えるこの根本の罪は、先ほど書いた阿弥陀仏の同体の大悲の呼びかけの中でのみ、初めて頷くことが出来る罪です。外から断罪する叱責の中では決して認めることは出来ません。従って、この罪に頷くことは、自分の身が阿弥陀仏の同体の大悲の中にあるという頷きと一つのことです。すなわち、誹謗正法罪の身であったという目覚めこそが、阿弥陀仏の第十八願の救いの根本内容なのです。

■『歎異抄』の悪人正機について

 ところで、『歎異抄』には有名な「悪人正機」の教えが述べられています。しかし、これは「他力をたのみたてまつる悪人もとも往生の正因なり」と述べられていますから、正確には「悪人正機」の教えではなく「悪人正因」の教えというべきです。「正機」とは救いの対象ということですが、「正因」は救いの内容そのものということです。すなわち、「他力をたのみたてまつる悪人」の自覚こそが、阿弥陀仏の本願の救済内容そのものということです。「もとも」というのは、唯一無二でそれ以外にないということです。(大谷派の聖典では「もっとも」となっていますが、本願寺派の聖典では「もとも」となっており、これの方が最も古い蓮如写本に基づいています)

 『歎異抄』で往生の正因とされている悪人は、単なる悪人ではなく「他力をたのみたてまつる悪人」なのです。それは、善人や悪人が最初から居て、その悪人が往生の正因だというのではありません。阿弥陀仏の呼びかけによって自分の姿を知らされて目覚めた悪人ということです。ですから、阿弥陀仏の呼びかけによって自分の姿知らされない限りは、「自分を頼んでいる」善人は居ても、「他力をたのみたてまつる悪人」はどこにも居ないのです。世間でいわゆる悪人とされている人も、阿弥陀仏の目から見れば、「自分を頼んでいる」善人に外ならないのです。

その「自分を頼んでいる」善人というのが、先ほど書いた「倶生起の我執を抱えた者」ということです。また「誹謗正法罪を抱えた者」ということです。十方衆生は全て誹謗正法の罪を抱えているので、本願は、全ての衆生を「十方衆生」と呼びかけ、また第十八願において、全ての衆生を「五逆誹謗正法の者」と呼びかけているのです。「五逆誹謗正法」といっても、先ほど述べたように本質は誹謗正法ですから、本願は、全ての衆生を「誹謗正法の者」と呼びかけ、その呼びかけによって、十方衆生全てに誹謗正法の重罪を知らせ、「その重罪の身と同体となって永遠に歩んでいくよ」と呼びかけているのです。そのことによって、初めて私どもは、「自身は曠劫已来の善人であった!」「曠劫已来の誹謗正法の徒であった!」と目覚めることができるのです。その目覚めが「他力をたのみたてまつる悪人」です。この目覚めこそが、阿弥陀仏の本願の救いの内容であり、また往生の自覚内容だということが、『歎異抄』第三章では述べられているのです。

【参考文献】

 なお参考文献として、西田真因先生が『歎異抄』の善人、悪人ということについて書かれた「歎異抄における悪の概念」という論文(法蔵館『西田真因著作集 第一巻』所収)の一部をPDFにして貼付いたします。やや難解で長文ですが、関心のある方はどうぞラウンロードしてお読みください。

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