M.R. 様(2025年11月24日付 宮岳文隆より)
初冬の候。冬枯れの季節となり朝晩寒くなりました。
去る11月5日6日、H寺様永代経法要には、二日間お参り下さり熱心にご聴聞下さいまして有難うございました。
また二日目の法話の休憩時間にご質問くださいまして有難うございました。
「生老病死の問題もさることながら、私には孤独という事が切実な問題です」と訴えられました。その問いは、私に深い共感を以て響くものがありました。身に感じておられるこうした切実な問いは、その問い自体が私には教えとなって響いてまいります。それで、H寺の御住職にお願いしてMさんのご住所をお尋ねしました。それは、私にこの問いに対する答えがあったからではありません。その問いに共感して、私自身もこの問いに向き合いたいと思ったからです。
真宗の教えでは、問いが大事だとよく言われます。答えは、多くの場合自分の理性の中に取り込んでいることが多いです。ですので、自分の理性よりも小さい。けれども、身から湧き出た問いは、自分の理性を破った普遍性を持っています。問い自身が教えであり、私を歩ませてくれるものです。その出所は如来の本願につながっていると思います。
さて、訴えられた孤独という問いに私なりに向き合いたいと思います。順序立てて文章を綴ることが段々難しくなってきていますので、思いつくままに箇条書きのような形で書いてみたいと思います。まとまりのない手紙になると思いますが、どうかお許しくださいませ。
1.「孤独」という言葉を辞書で引いてみますと、「みなし子、ひとり者の意。周囲にたよりになる人、心の通い合う相手が一人も居なくて、一人ぽっちであること」と書いていました。「孤独」の「孤」という漢字は、「子」と「瓜」から成り立っています。瓜は、地面を這う蔓に転がって生ります。つまり、「孤」という字は、子どもが、瓜のように地面に転がっている状態をあらわしている字です。捨てられた子、孤児という意味です。捨てられているということ。自分は世界から望まれていない存在だということです。
それから、「独」という漢字は、漢和辞典には「ひとり者。老いて子のない者。夫のない婦人。子孫のない者。」とありました。主に捨てられた老人をあらわす字です。
こうして辞書を引いてみるだけで、孤独という字そのものが切実に身に響いてまいります。捨てられた存在。誰からも相手にされない存在。世の中から望まれない存在。―これは人間にとって一番こたえるものです。生きていく力を失わせてしまうものです。
2.もう十年ほど前のことですが、ある方(35歳男性)から次のような電話を受けたことがあります。
一歳の時両親が離婚し父親に育てられました。その後どういう経過をたどったか分かりませんが、電話された時は一人で生活保護受給中ということでした。そういう中でようやく母親を探し当て、自分に異父の妹と弟がいることを知りとても喜びました。ところが、ようやく探し当てた母親は自分を迷惑がり、大変ショックを受けました。自分なんか生まれてこなければよかったと落ち込んで自殺未遂をするにいたりました。その時母親には連絡しましたが、母親は来てはくれませんでした。その絶望感から電話されたという方でした。
これはつらいです。このような厳しい孤独に対して、親鸞聖人はどのように呼びかけてくださるのでしょうか?これは私自身に突き付けられた大きな問題であります。
3.それについて思うのは、親鸞聖人も孤児だったということです。9歳で得度する時、青蓮院へ連れて行ってくれたのは叔父でした。父と母は、親鸞聖人の幼少時にすでに亡くなっておられたのでしょうか。そして、出家得度の後は、比叡山で20年間悟りを求めて懸命の修行をされました。しかし、29歳の時にとうとう完全に行き詰ってしまわれました。その行き詰って行き場を失われた親鸞聖人に、法然上人は、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と呼びかけてくださったのです。
4.行き詰まられた親鸞聖人は、その法然上人のお念仏の呼び声に、法蔵菩薩(阿弥陀仏)の「われら」という呼び声を聞かれたのではないかと思います。
親鸞聖人は、ご著作の中で「われら」という言葉をものすごく沢山使っておられます。大体44箇所くらい使われています。調べたわけではありませんが、これほど多く使われている言葉は他にはないのではないかと思います。それほど、親鸞聖人にとっては、この「われら」という言葉は魂に響く言葉だったのでしょう。
「われら」という言葉は、なかなか説明できない深さを持っているとつくづく思いますが、私なりに少しばかり尋ねてみたいと思います。
親鸞聖人が「われら」という言葉を使っておられる法語の一つに次のような法語があります。
〇「『十方衆生』というは、十方のよろずの衆生なり。すなわちわれらなり。」
(『尊号真像銘文』大谷派第二版聖典627頁)
ここで「十方衆生」と述べられているのは、『無量寿経』の中で法蔵菩薩が、48願中第18願、第19願、第20願の三願にわたって、三度繰り返して「十方衆生よ」と呼びかけてくださっておられます。その言葉を押さえて言っておられるのです。三度繰り返して呼ぶというかたちで、過去、現在、未来の衆生の全てを呼んでおられるのです。
そして、親鸞聖人は、その「十方衆生」という言葉について、「十方のよろずの衆生なり」と受け止め直されたのです。これは単に言い換えられたように聞こえますが、そうではありません。「よろずの衆生」という言葉の中に、ありとあらゆる生き方をしている全ての人が一人残らず呼び出されているのです。先ほどの男性も、私も、そしてMさんも、その中に呼び出されています。どんな人も、この「十方のよろずの衆生なり」という呼び声の中に呼び出されていない人は一人もいないのではないかと思います。
5.続いて親鸞聖人は、その呼び出された一人一人を、「すなわちわれらなり」と押えられたのです。
この「われらなり」という言葉は、「かれら」という傍観者的な冷たい言葉とは違います。先日H寺さんでお話ししたような「我と汝」の呼びかけです。すなわち、「あなたは私。私はあなた。あなたと私は切っても切り離せない。あなたは私にとって掛け替えのない存在です」という呼びかけです。
しかも大事なことは、「われら」という呼びかけは、「孤独なあなた、誰からも見捨てられて必要とされていないあなたは、一人ではありません。多くの友がいます。その友がみんな、一人ぽっちだと思っているあなたを、『あなたはわれらです。われらはあなたをわれとします。そしてあなたを待っています。久遠の昔から待ち続けています。』―こう呼んでくださっているのです。」―こういう呼びかけです。そういう呼び声を親鸞聖人は聞かれたのではないかと思います。
つまり、「われら」という呼び声は、その呼び声の中に無数の友がいて、私を待っていてくださっているということです。これはとても大きなことだと思います。そこが「我と汝」とだいぶ違うところではないかと思います。
6.では、そういう「われら」という呼び声は、一体誰がそう呼びかけているのでしょうか?親鸞聖人でしょうか?いや、そうではありません。親鸞聖人もその呼び声を聞かれた方です。そして感動しておられるのです。ご著作の中で44回も「われら、われら」と書きながら、感動して聞いておられるのです。
では、呼びかけておられるのは一体誰でしょうか。それが、『無量寿経』の48願中第18願、第19願、第20願の三願にわたって、三度繰り返して「十方衆生」と私どもを呼んでおられるお方、すなわち法蔵菩薩です。その法蔵菩薩は、私の外に居られるのではありません。私の内、私の手の届かないこの身の底に居られて、どんな私とも一つになって、いつでも、どんな時でも、今ある私を「われら」と呼んでくださっているのです。
7.親鸞聖人が「われら」という言葉を使っておられる法語を、あと二つほどあげてみたいと思います。
◯「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて 願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。」
(『歎異抄』「第3章」大谷派第二版聖典769頁)
ここで、親鸞聖人は、内心の煩悩の醜さを受け止められずに落ち込んでいる自分を、「われら」と黙って受け止めてくださっている法蔵菩薩の声を聞いておられるのでしょう。
「私は、あなたと同じように、自分の煩悩の醜さに悩み苦しんでいる者です。また、私だけではなく、ここには、あなたと同じように自分の煩悩の醜さに悩み苦しんでいる多くの友がいます」。「あなたは、自分は一人ぽっちで孤独に煩悩に悩み苦しんでいると思っていますが、あなたは一人ではありません。私も同じように煩悩に悩み苦しんでいる者です。また、同じように煩悩に悩み苦しんでいる多くの友がここにいます。友の国がここにあります。その国で、われらは、あなたを待っています。」―そういう法蔵菩薩の呼び声を親鸞聖人は聞かれているのでしょう。そんな感動が、この「煩悩具足のわれら」という言葉から伝わってくるような感じがします。
それから、もう一つの法語は次の法語です。
◯「『凡夫』というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おおく、ひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分、ようようずつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにおさめとりたまうがゆえに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚のはなに化生して、大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。」
(『一念多念文意』大谷派第二版聖典667頁)
「煩悩を欠け目なく持っている者。その為に、縁がもよおせばどんな浅ましい事もしてしまうような救いようのない者。息を引き取る寸前まで、欲が多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころが多くて絶え間ない者。煩悩に翻弄されて、人間関係もうまくいかず苦しんでいる者。しかも、自分でもそんな自分を受け止めることが出来ずに一人で苦しんでいる者。」「でもあなたは一人ではありません。われらの友です。ここに、あなたと同じように煩悩に翻弄されて苦しんでいる多くの友がおり、ここにわれらの国があります。われらはこの国であなたを待っています。」―こういう法蔵菩薩の呼び声を、親鸞聖人は聞いておられるのではないかと思います。そんな感動がこの法語から伝わってまいります。
以上、親鸞聖人が「われら」という呼び声を聞いておられる法語を三つほどあげました。いずれも、読ませていただく度に、親鸞聖人の感動が伝わってくる法語です。
8.ところで、私は二日目の法話の休憩時間にMさんから「孤独ということが切実な問題です」というお話をお聞きした際、「休憩後そのことについて触れさせていただきましょう。」とお返事しました。そして、休憩後の法話では、主として佐野明弘先生の言葉を引用しながら、「孤独」と「不安」と「空しさ」は、あらゆる人間が根底に抱えている根本問題で、宗教がそれを解決してくれると一般的には思われているが、本願の教えはそうではない。むしろ、私どもはどこにも解決のない、何を持って来ても埋められないものを抱えている身だということを教えて、念仏申すべき身に帰らせてくださる。それが本願の教えだということを話させていただきました。
それについて少し補足させていただきたいと思います。私どもは、どこにも解決のない、何を持って来ても埋められないものを抱えている身ですが、大事なことは、そういう身が、「念仏もうしなさい」。「そのままのあなたを待っていますよ」と呼びかけられている存在だということです。ここが大事なところです。このことを外して、救われない身ということだけを聞くと、絶望的な教えのように受けとめられてしまうかも知れません。けれども私どもは、法蔵菩薩によって久遠の昔から、「われら」と呼びかけられ、受け止められ、待ち続けられている身なのです。その確信があるから、「いずれの行もおよびがたき身」という救いのないわが身の事実を、畏れず臆せず徹底して見ていくことができるのです。従って、先ほどあげた佐野先生の言葉は、実は徹底した救いの言葉に外ならないのです。
9.このことと関連することなのですが、、先日H寺様でお配りした資料の中で、業についての次のような曽我先生のお言葉と、それについて私の書いた言葉をあげています。
◯「『惟うに、若し仏の本願がなければ、業というものは成り立たない。業は迷いだという事になろう。』 (曽我量深先生の言葉)」
◯「※つまり、宿業とは、本願によって始めて成り立つところの、如来によって与えられた、如来によって抱きしめられている救いの場所である。そこが、人間の考えた運命論との違いである。」(宮岳)
つまり、「われら」という呼び声が聞こえる場所は、どこにもあるべき所が見いだせないわれらが、法蔵菩薩によって抱きしめられ、受け止められている救いの場所に外ならないということです。
私がMさんにお手紙を差し上げたいと思いましたのは、そのことを補足させていただきたいということが一つありました。
10.誰からも相手にされない存在。世界中から望まれていない存在。世に捨てられた存在―先ほども書いたように、人間にとって、これほどこたえるものはありません。マザーテレサは、そういう人の側に行って、「あなたは一人じゃない」と呼びかけ続けたのです。でもその呼びかけが単なる慰めの言葉ではないということが一体どこで言えるのでしょうか?これは我らの大きな問題です。
それを、外側のものや人に求めれば、最終的には裏切られると思います。『無量寿経』には、
「人、世間愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来たりて、行に当り苦楽の地に至り趣く。身、自らこれを当くるに、有も代わる者なし。」
(大谷派第二版聖典60頁)
という経文があります。この経文の言葉のように、われらは本質的に孤独から逃れられない存在なのです。では、「あなたは一人じゃない」という呼びかけは、単なる慰めの言葉に過ぎないのでしょうか。もしもそうではないと言うのなら、その呼び声は一体どこから聞こえてくるのでしょうか?
それは「この身」の奥、底からなのだと思います。外からではないのです。もっと言えば、今孤独に沈んでいるならその孤独そのものから。今不安におののいているならその不安そのものから。今空しさに落ち込んでいるならその空しさそのものから、その呼び声は聞こえてくるのではないでしょうか。つまり、苦悩や悲しみと別なものが私を救ってくれるのではありません。苦悩や悲しみそのものが私を救いに来てくれるのです。
この感覚は、長い間欝病で苦しんでこられたある方が、「苦しんだ果てに、体が救いに来てくれた。不思議ですがそんな感覚が私に起こったのです。」―このように私に話してくださったことによって教えられたものです。
11.そのことについて、私の感じたことを書いたのが、二日目にお配りした『あなたは一人じゃない』という一文です。少し長いですがその一文をもう一度ここにあげさせていただきたいと思います。
『あなたは一人じゃない』
私を呼ぶもの、私をそのままに受け止めるものは、どこにある?
それは私の外にはない。私の中に、私のこの身の底にある。
身といっても、生理的な身体のことではない。
この身の底に流れている無量寿のいのちがそれだ。
はるかな昔から、連綿として受け継がれてきている本能、身体感覚。
「宿業 本能 感応道交」
理性よりも、こちらの方が深い。
Our deeper self(アワー ディーパー セルフ―「われらの深い自己」。「もう一人の自分」)
理性はMy shallower ego(マイ シャロワー エゴ―「私の浅い自我意識」)
この身に流れているわれらの宿業。
本能の大地 故郷 古里。
われらの出所であり、現在を支えているものであり、
帰り場所であり、大地であり、大船である。
そのわれらの本能が、われらを招喚する。
『あなたは、一人じゃない』と。
◯「汝、一心に正念にして直ちに来たれ。我、能く汝を護らん。衆て水火の難に堕せることを畏れざ
れ」
◯「『欲生』と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の
信楽ををもって欲生の体とするなり。」
(『教行信証』「信巻」大谷派第二版聖典263~264頁)」
12.大谷派では、法話の最初に、話す者もご聴聞の方々も、共に「三帰依文」を誦することから始めます。この「三帰依文」前文の冒頭の言葉が「人身受け難し、今すでに受く」です。性別も国籍も年齢も能力も行為も性格も問わず、平等に今受けているこの人身。この人身は、オギャーと生まれてから死ぬまでの肉体のことではありません。肉体の底に、遠い過去から連綿として受け継がれ流れている一切衆生の魂、苦悩を受け止め続けてきた魂のことです。その魂は、生、死をこえて連綿として「この身」の中に受け継がれているものです。
実は、先ほど上げた一文『あなたは一人じゃない』の中に流れている呼び声の出所は、この三帰依文の中に流れている「この身の魂」なのではないかと思います。「人身受け難し」という「この身」の中に、「われらの国」の歴史が生きており、その歴史の中で、無数の友が、孤独に打ち震えている私を、「われら」と呼び続けてくださっているのではないかと思います。
13.また、『あなたは一人じゃない』の一文の最後には、
「『欲生』と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。」
という親鸞聖人の言葉をあげています。これは、法蔵菩薩が第18願の中で「至心、信楽、欲生我国」と私どもを呼んでくださっているところの「欲生我国」について、親鸞聖人が注釈してくださっておられる言葉です。
私なりに意訳してみますと…。
「法蔵菩薩が本願の中で『欲生我国』という言葉で私どもを呼んでおられるのは、私どものこの身の底に流れているわれらの魂が、われら迷いの衆生を呼ぶ呼び声のことです。われらのこの身には、この呼び声が、久遠の昔から、誰の中にも生れながらに平等に植え付けられているのです。ここにわれらの国があります。この国がわれらの故郷です。われらの出所であり、帰り場所です。生と死をこえた無量寿の国です。この国に帰って来なさい。」―そういう法蔵菩薩の呼び声を、親鸞聖人は、この「欲生我国」という仏語の上に聞き取られたのでしょう。
14.それからまた、『あなたは一人じゃない』の一文の終りの方には、「願生」という言葉と「欲生」という言葉を並べて書いています。これは「願生彼国」と「欲生我国」を対比して味わう為に並べて書いたものです。
「願生彼国」は、衆生の側から願う言葉で、生まれんと願う国が「彼の国」、すなわち向うに目指す国となっています。それに対して「欲生我国」というのは、われらを呼ぶ国は、向こうではなく、われらの根源にあって、われらを呼び返す国なのです。
「あなたの帰る国は、あなたの根源、あなた自身の身の中にあります。『われらの国』がそれです。その『われら国』に帰って来なさい」―そういう呼びかけを、親鸞聖人は「欲生我国」という経文の言葉の上に聞かれたのでしょう。
15.また、『あなたは一人じゃない』の一文の中に、Our deeper self(われらの深い自己)とMy shallower ego(私の浅い自我)という二つの自分のことを書いています。これは、われらは、深さも性質も全く異なるこの二つの自己を両方併せ持つ存在だということを表わそうとしたものです。
My shallower ego(私の浅い自我)。これは、先ほど引用した『一念多念文意』の法語の中で、親鸞聖人が、
「『凡夫』というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おおく、ひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず」
と述べておられましたが、そのように煩悩に翻弄されている有限な自分のことです。私どもはこの自我によってさんざんに苦しむのです。この自我に救いはありません。
それに対して、Our deeper self(われらの深い自己)―これが、今までずっと述べてきたところの「われら」の国を生きる自己なのです。この自己は、肉体の死で終ることのない無量寿の自己です。
My shallower ego(私の浅い自我)。この自分も私の生まれながらの本性、宿業ですから、「臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」と述べられているように、肉体の命が尽きる寸前まで続きます。でも、大丈夫です。われらのこの身には、この自我が全く届かない深い層にOur deeper self(われらの深い自己)が流れています。この自己は、表面の自我が全く届かない深層に流れているので、表面の自我に振り回されることが全くありません。そして、散乱騒動を繰り返す表面の自我を、善し悪しを一切言わず、そのまま黙って受け止めてくださるのです。
この深い自己が、「もう一人の自分」、すなわち法蔵菩薩なのです。この深い自己がわれらのこの身の底に、誰の中にも平等に流れています。そのことに気づけば、われらは、散乱騒動を繰り返す表面の自我の波に一喜一憂することなく、自分や他の人の醜い自我のありのままの相を、嫌わず、畏れず、臆せず、とことん腹を据えて、真向いになって見つめていけるのです。そこに腹の据わった世界が開かれてくることを実感いたします。
西田幾多郎先生の
◯「わが心 深き底あり 喜も憂の波も とどかじとおもう」
この歌を憶わずにはいられません。
われらは、Our deeper self(われらの深い自己)の自分と、My shallower ego(私の浅い自我)の自分。この深さと性質の全く違う二つの自分を両方併せ持って生きている、いわば二刀流を生きる自分なのです。
16.最後に、そのわれらには念仏が与えられています。このことがとても大きいと思います。先日H寺さんでの法話では、「お念仏の眼差しの中で」という講題をあげさせていただきました。その「お念仏の眼差し」とは、今までずっと述べてきた「われら」の眼差しのことなのです。そういう「われら」の眼差しを、われらの祖先は「南無阿弥陀仏」というお念仏の声の中に聞き取ってこられたです。そういう南無阿弥陀仏の眼差しの中で、苦悩の人生を生き抜いてこられたのです。
この間庄内町のお寺さんの報恩講に行きましたら、掲示板に次の言葉が書かれていました。
◯「お念仏 私のそばに 阿弥陀さま」
誰の言葉かは分かりませんが、坊守さんがある本で読まれた言葉だそうです。いい言葉だなと思いました。その言葉を味わいながら、私はまた、
◯「お念仏 われらの底に 法蔵さま」
こういうふうにも、心の中で味わわせていただきました。
以上、長々と書き連ねてすみません。Mさんがお問いくださった孤独という問題について、私自身向き合わせていただき、色々と感じさせていただきました。その一端を途中報告のつもりで書かせていただきました。長い手紙になってしまい申し訳ありません。最後までお読みくださって有難うございます。
合掌
(2025年12月24日投稿)