• 悩み多きわれら、親鸞の教えに「自身」を聞かん

(ブログNo.27)「一念の浄信」について           ―ジェシーさんの質問を受けて―

ジェシー釋萌海様

 (前略)「一念の浄信について教えていただけますか」というお尋ねに対して、遅くなりましたが、今思っていることを書いてみたいと思います。順序立てて文章を綴ることが段々難しくなってきましたので、思いつくままに、箇条書きのような形式で書かせていただきたいと思います。

「一念の浄信」について

1.「一念の浄信」という言葉は、親鸞聖人の主著『教行信証』「信巻」に三箇所出ています。いずれも『無量寿経』の異訳の経典『如来会(にょらいえ)』において、本願成就文に相当する経文として

「他方仏国の所有(しょう)の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、能く一念の浄信を発(おこ)して歓喜せん」

という経文がありますが、ここから引文されたものです。

『無量寿経』の本願成就文というのは、

 「諸有衆生(しょうしゅじょう)、其の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。彼の国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん。唯、五逆と誹謗正法(ひぼうしょうぼう)とをば除く」(大谷派第二版聖典238頁)

という経文です。

それから『如来会』の本願成就文というのは、

 「他方の仏国の所有(しょう)の有情(うじょう)、無量寿如来の名号を聞きて、能(よ)く一念浄信を発(おこ)して歓喜せしめ、所有の善根回向したまえるを愛楽して無量寿国に生まれんと願ぜば、願に随いて皆生まれ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間・誹謗正法及び謗聖者を除く」(大谷派第二版聖典238頁)

という経文です。

 親鸞聖人は、『教行信証』「信巻」において、本願成就文を引用される時、この二つの本願成就文を必ずセットにして引文しておられます。それだけ『如来会』の本願成就文を、『無量寿経』の本願成就文を更に明瞭にする経文として重要視されたのです。

 では親鸞聖人は、『如来会』の本願成就文のどういう所に言葉に感動されたのでしょうか。

 まず第一にそれは、「能(よ)く一念の浄信を発(おこ)して」という言葉であったに違いないと思います。これは書き下し文ですが、原文では「能発一念浄信」となっています。「能く発す」と「能発」とでは、そこに大きなニュアンスの違いがあります。「能く発す」の場合は、「発す」という動詞を修飾する副詞の言葉になりますが、「能発」の場合は、「発(おこ)す」という動詞の主語を表していると読むことが出来ます。つまり、「発す」の主語は、私ではなく、「私を超えた偉大なものが、私を破って、私の上に発ってきた」ということを表しているのです。親鸞聖人は、そのことに感動されて『正信偈』に、「能発一念喜愛心」と述べられたのでしょう。

 第二に、「浄信」という言葉にも感動されたのでしょう。「浄信」とは、煩悩(自我)の濁りに全く汚されないということです。また、煩悩(自我)の心が全く届かないということです。それは法蔵菩薩の願心のことです。法蔵菩薩は、一切衆生の煩悩の迷いの真っ只中に飛び込んで、しかも衆生の迷いに染まず、衆生の迷いを自己の迷いとして全て引き受けて、永遠に運命を共にしていこうと発願して立ち上がられたのです。その法蔵菩薩の願心は、ジェシーさんがいみじくも表現してくださいました「Our deeper self」という英語表現が、その性質を見事に表わしていると思います。この清浄なる願心が、われら衆生の宿業の身の最深部に、無始の過去から、一切衆生に平等に流れているのです。

 ところが、われらは、自分の表層の自我の思い「My shallower ego」に振り回されて、そんな清浄な法蔵菩薩の願心「Our deeper self」が、この身の最深部に流れているなどということはつゆ知らず、久遠劫来流転しているのです。そのわれらが、南無阿弥陀仏の呼び声に呼び覚まされて、この身の最深部に流れている法蔵菩薩の願心に目覚めるのです。われらの最深部に地下水の如く流れている法蔵菩薩の願心が、表層の自我を破って発起してきたのです。『如来会』の「能発一念浄信」という経文の言葉は、そのことを見事に表現している言葉だと思います。

 

2.親鸞聖人が書かれた『高僧和讃』の「善導和讃」に次のような和讃があります。

  「釈迦弥陀は慈悲の父母 種種に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり」(大谷派第二版聖典600頁)

 

この「発起」という言葉について、親鸞聖人は次のような左訓をつけておられます。

  「たちおこす いまはじめておこすを起という 

   ひらきおこす

   むかしよりありしことをおこすを発という」

(本願寺出版社『浄土真宗聖典全書』二宗祖篇上442頁)

 

 久遠の昔からこの身の奥深くに流れている「われらの無上の信心」が、釈迦弥陀の種々様々のお育てによって、今この私の宿業の身の上に、開発されて立ち起ってきた。泉のように噴出(spring up)してきた―このような親鸞聖人の感動が、この左訓にはよく表われていると思います。

 この噴出(spring up)してきた法蔵菩薩の願心が、「一念の浄信」なのです。

3.『如来会』の「能発一念浄信」の経文は、「他方仏国の所有の衆生、無量寿仏の名号を聞きて」という経文を受けて述べられています。この中「所有」の「有」は、われらの迷いや苦悩を表しています。つまり、「所有の衆生」とは、迷いや苦悩を抱えて生きている衆生という意味です。それは外ならぬ私のことであります。私は、煩悩に翻弄されて、自分の生きていくべき道を見出せず途方にくれている者です。その私が、「無量寿仏の名号を聞く」のです。

 「無量寿仏の名号」とは、南無阿弥陀仏の呼び声のことです。その呼び声というのは、「あなたは三千大千世界の中で唯一無二のかけがえのない存在なのです。私は、たとえあなたがどんな事になろうとも、決してあなたを見捨てず、あなたを抱きしめ、あなたと一身同体となって、運命を一つにして永遠に歩み続けていきます」と、私の存在そのものに向って呼びかける声なのです。この声が私の魂に聞こえてきた時、私の深い層に流れていた法蔵菩薩の願心が呼び起されて、今、ここに、こういうかたちで在る自分をそのまま受け止め、手を合わせ、尊んでいくことが出来るのです。またその声は、自分だけではなく、自分の出遇う他の人々に対しても、同じようにその人をそのまま敬い尊んでいる、そういう声であったことを知ることが出来るのです。

 そんな心は、表層の自分には絶対にない心です。他人に対しては、「決して心を許してはならぬ」と、心に厚いガードを張り巡らして警戒しているのです。でも、そんな自分が、「価値があるからとか価値がないからとか、そんなことは全く問題ではないのですよ」と、私の存在そのものを無条件に抱きしめ、受け止めてくださる声に触れた時、氷のように固かった警戒心が溶けるのです。私の存在そのものが、そんな温かな眼差しによって無条件に受け止められている世界があったことを、身の底に感じるのです。その眼差しの世界は、私だけでなく、他の一切の人々に対しても、その人がたとえどんな生き方をしていようとも、「そのままを」抱きしめ、受け止める眼差しの世界であったことを知るのです。

 私の表層の自我心には、そんな心は毛頭有りません。死ぬまで名利(みょうり)、勝他(しょうた)、名聞(みょうもん)の心で生きていくしかありません。にもかかわらず、私のこの身の底には、その表層の心と同時並行して、前述のような法蔵菩薩の願心が流れているのです。その世界こそ私の本来の居り場所であったのです。そのことを知らされれば、名利、勝他、名聞の心を離れることはできなくても、そんな自分に悲しみを感じる度に、法蔵菩薩の、一切の人を敬い礼拝する眼差しが同時に注がれていることを感じることが出来るのです。南無阿弥陀仏の名号の呼びかけによって、そういう世界を呼び覚まされるのです。元々流れていたから、呼び覚まされることができるのです。元々流れていなければ、いくら呼びかけられても決して呼び覚まされることはありません。

 親鸞聖人は、『如来会』の「他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、能く一念の浄信を発して歓喜せん」という経文に、そういう世界を呼び覚まされて感動されたのでしょう。

4.親鸞聖人は、『教行信証』「信文類序」の冒頭に

 「夫(そ)れ以(おもん)みれば、信楽(しんぎょう)を獲得(ぎゃくとく)することは如来選択(せんじゃく)の願心より発起す。」(大谷派第二版聖典235頁)

と述べておられます。この「如来選択の願心より発起す」の「より」は、原文では「自(よ)り」というふうに、「自」という漢字を使っておられます。「自」という漢字は、他の力によることなく、そのものが、そのもの自身の力によって動き出すことを表しています。親鸞聖人は、信心とは、法蔵菩薩の願心そのものが、私の底から表面の私を破って発起したものであることを、この「自(よ)り」という漢字を使うことによってより明瞭にされたのです。

 同じ「より」でも、この後の文章「真心(しんしん)を開闡(かいせん)することは大聖矜哀(だいしょうこうあい)の善(ぜん)巧(ぎょう)より顕彰(けんしょう)せり」の「より」については、「従(よ)り」という漢字を使っておられます。「従」という漢字は、「他の働きかけによって」ということを表しています。信心は、善知識のお育て無くしては決して開かれないので「従」という字を使っておられるのです。しかし、だからといって決して外から頂くものではなく、われらの内に流れていた法蔵菩薩の願心「Our deeper self」が、善知識のお育てによって発起したものであります。その違いを、親鸞聖人は、「より」の漢字を使い分けることによってはっきりさせようとされたのです。

5.また「信文類序」では、先の言葉に続いて、「自性唯心(じしょうゆいしん)に沈む」ということと、「定散(じょうさん)の自心に迷う」という二つの事柄が述べられています。「自性唯心に沈む」とは、簡単に言えば、個人的な「心境」に一喜一憂するということでしょう。また「定散の自心に迷う」とは、「定善散善に迷う」を略した言葉で、「善」に迷うことです。「善し」と思えるような自分になろうとして一喜一憂することでしょう。

 この両者に共通することは、いずれも表層の個人的な自我のレベルでの自己肯定を求めているということです。その世界は、名利、勝他、名聞の世界ですから、必ず優劣の生ずる差別の世界であり、海の表面の波のように、つねに浮き沈みが避けられない世界です。

 それに対して、法蔵菩薩の願心は、表面のどんな波をも受け止め支える海の底のような平等な心です。

 西田幾多郎の歌に、次のような歌があります。

 「わが心 深き底あり 喜(よろこび)も憂(うれい)の波も とどかじと思う」

 「自性唯心」も「定散の自心」も、つねに動いて止まない海の表面の波です。その波に一喜一憂して振り回されれば、われらに心休まる時はありません。しかし、海の底に目を転ずれば、その底は、表面の波の動乱が決してとどかず、従って、表面の波の動乱に全く左右されず、逆に動乱して止まない表面の波を、そのまま静かに受け止め支え続けていることを知ることが出来ます。表面の波は私の宿業ですから、息を引き取る寸前まで途絶えることはありません。しかしながら、同時にその波をそのまま受け止め支える底も、その波のとどかぬ深部にあって、波のわれらを永遠に受容し続けて下さるるのです。この底こそが、われらの本拠、帰り場所、古里なのです。

 「能発一念浄信」とは、今まで表面の波しか知らなかった私が、われらには万人に共同の底があったことに目覚め、一切の衆生と友となる底の世界に生きようと立ち上がった喜びの心を表している言葉なのではないかと思います。

 以上誠に不十分ですが、「一念の浄信」について現在感じていることを、まとまらないままに述べさせていただきました。ジェシーさんが問いを与えて下さったことによって、「一念の浄信」について改めて問い直すことが出来て感謝しています。有難うございました。

合掌

                                                                                       2025年11月11日 宮岳文隆

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