• 悩み多きわれら、親鸞の教えに「自身」を聞かん

(ブログNo.26)一番苦手な人は私の憍慢を知らせて下さる仏様です

「一番苦手な人は私の憍慢を知らせて下さる仏様です」という大石法夫先生の言葉と
「念仏を忘れて人に会ったらことごとく失敗します」という藤解照海先生の言葉につい

  〈Hさんのご質問に対する返信の手紙〉

H.M.様

(前略)お手紙の中で、「一番苦手な人が私の憍慢を知らせてくださる仏様です」という大石法夫生先生のお言葉と、「人に会う時お念仏して会いなさいよ。お念仏を忘れて人に会ったらことごとく失敗しますよ」という藤(とう)解(げ)照(しょう)海(かい)先生のお言葉についてご質問くださいました。とても大事な事をよくお尋ねくださいました。私自身、つねにそのお言葉のお心について問わしめられているところですので、改めて自分自身に確かめるような気持でお返事を書かせていただきます。

 まず、後の方の藤解先生のお言葉、「人に会う時お念仏して会いなさいよ。お念仏を忘れて人に会ったらことごとく失敗しますよ」の方から書かせていただきます。

 ここで、「ことごとく失敗する」とおっしゃっていますね。例外はないということでしょう。ここで大事なことは、失敗の中身だと思います。

 もうだいぶ前の事ですが、ある研修会であるご住職が次のような発言をなさいました。

 その頃東北の方である殺人事件がありました。その事件を取り上げて、その方は「自分もお念仏を忘れたら、そういうことをしたかもしれない」と話されたのです。この発言を聞かれて、Hさんはどう思われますか? 私は、その時よくは分からないながらも、何か違和感を感じました。言われている言葉だけをみれば、藤解先生が言われている言葉とどこも変るところはないように思われます。でも、受ける感じが全く違うのです。どこが違うのだろうか? 

 その後、時々そのことを考えさせられておりました。そして気がついたのは、失敗の中身が違うということです。その方が言われていた失敗の中身は、殺人事件を犯すという行為のことでしょう。でも、藤解先生がおっしゃっておられる失敗の中身は、行為のことではありません。念仏を忘れている時の私どもの心のことをおっしゃっておられるのだと思います。

 それで私は思うのですが、念仏を忘れている時の心はどういう心かというと、「機の深信を欠いている」という言葉で言い表すことができるのではないかと思います。これには少し説明が要ると思います。
 実は、この「機の深信を欠いている」という言葉は、曽我量深先生が言われた言葉です。曽我先生には、最晩年にある差別発言をされるという事件がありました。その発言について曽我先生が糾弾された時、他のお弟子方は、「曽我先生の真意は、そういう意味で言われたのではない」と弁護されました。しかし、曽我先生は、一切弁解されず、次のような慚愧の言葉を表明されたのです。

 「先般私は『宿縁と宿善』という題目でお話しいたしました時、われわれ宗門人が反省しなければならないこととして、“閉鎖社会”という言葉で言うべきところを差別言辞を用いました。この言葉は使ってならないということを重々知っておりながら、この言葉によって著しく傷つけられるお方々が現実にあるということに思い至らなかったことは私の認識が至らなかったことでありまして省みてまことにお恥ずかしい次第であります。私がそんな差別的言辞を使ったということは、自分が機の深信を欠いていることを曝露した。お恥ずかしいことであります。そういうことは或る程度までは自分にわかっているのだが、口先だけの説法になっていて自分の生活になっていないことを曝露したのでありましてまことにお恥ずかしいことである。これは私一人が全社会に負うべき責任であります。心から怖懼慚愧いたします。」

   (真宗大谷派『部落問題学習資料集』九十六頁。)

このような慚愧の発言をなさいました。

 「機の深信を欠いておりました。まことにお恥ずかしいことであります。」―これは、本当に大事なお言葉で、私にとって決して忘れることのできない金言です。私どもは、この気づきによって機の深信を回復することができるのです。この懺悔のお言葉こそ、曽我先生が機の深信に立ち返られた時の端的のお言葉だと思います。これが、念仏に立ち返られた時の目覚めの内容だと思います。

 つまり、「念仏を忘れて人に会ったら失敗する」というその失敗の中身は、善人になってしまうということでしょう。念仏を忘れたら、機の深信を忘れて善人になってしまう。これに対して、その方の発言は、「念仏を忘れたら、自分は殺人を犯すような悪人になっていたかも知れない」と言っておられます。裏を返せば、普段は自分はそんな人間ではないといっておられるのです。これが、機の深信を忘れた善人の世界だと今になって気づかされます。また、また自分もそうなっていることを知らされます。

 これは、最初のご質問、「一番苦手な人が私の憍慢を知らせてくださる仏様です」という言葉の内容と関連していると思います。「憍慢」とは「善人になっている」ということでしょう。「機の深信を欠いておる」ということでしょう。善人のところに立って、善悪、美醜の色眼鏡によって、他の人を評価しているということでしょう。だから、誰に対しても頭が上がっているわけです。これを「憍慢」というのでしょう。

 それに対して、機の深信とは、一切の人々は、どんな人も、それぞれ与えられたどうにもならない宿業に翻弄されつつ、喘ぎながら精一杯生きていると頭が下がり、「ご苦労さま」と手が合わさった世界ではないかと思います。これは法蔵菩薩の礼拝の世界です。しかしながら、これは、私どもの前六識―
(註・唯識教学では、人間の意識は、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官によって現に感覚されている意識的世界と、第七末那識、第八阿頼耶識という無意識の世界とがあると説く。その内、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官によって現に感覚されている意識的世界のことを前六識という)―の意識の世界にはあり得ない心です。私どもの前六識の意識的世界は、善悪を判断する理性分別によって成り立っていて、この理性分別こそ善人の世界なのですから。

 では、そういう法蔵菩薩の機の深信の世界は、私どものとうていあり得ない理想の世界なのかというと、それはとんでもない誤解です。それどころか、一切の人は、どんな人も、前六識の理性分別の世界よりも深い所に、第七末那識と第八識阿頼耶識と呼ばれる無意識の層を持っています。第七末那識は盲目的な我執の世界ですが、それはこの身が根本的に抱えているどうにもならない宿業です。しかし、この宿業と一つになって、この宿業を、「すなわちわれらなり」と受け止めて、どこまでもその責任を負ってくださる第八阿頼耶識が、この身の奥底には流れています。曽我先生が「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」と言われた法蔵菩薩の魂です。この法蔵菩薩の魂は、宿業の身の奥底に流れている「身の魂」です。誰の中にも流れています。鳥や獣にも流れています。一切衆生の身の底に平等に流れている「群萌の魂」です。私のこの身の奥底にも確実に流れています。私どもの前六識からは決して届かない深い所に、表面の前六識に全く汚されずにそういう礼拝の魂が流れているのです。これが、第八識の無意識の層に流れている法蔵菩薩の魂です。

 そういうふうに、法蔵菩薩の礼拝の世界(機の深信も)とは、私どものこの宿業の身の奥底に、誰の中にも平等に流れている「身の魂」のことです。そして、自分にはとうていあり得ないと思われるようなそういう礼拝の心が、自分のこの身にも流れているということに気づかせてくださるのが「一番苦手な人」という事になるのではないかと思います。

 なぜかというと、苦手な人というのは、自分には負かすことができないと思われている嫌な人ということですね。何がそう思わせているのかといえば、自分のプライドとか自尊心とかがあって、それが傷つけられるからでしょう。つまり、苦手な人は、自分の中に、相手に勝とうとする勝他の心があるということを如実に見せてくれます。だからこそ、苦手と感じられるのですね。

 そうすると、普通は、そんな心がある自分が嫌になったり、情けなくなって、落ち込んでしまうと思います。あるいは、そういう自分を反省して改めていこうと思ったりするでしょう。

 でも、この身の奥底に流れている法蔵菩薩の魂は、そういう勝他の心で生きている自分を咎めたり、少しは反省していけとは決して言いません。なぜなら、それはどうにもならない宿業だということがよく分かっているからです。譬えて言えば、それは由布岳を動かせと言うのと同じレベルの無理なことだということがよく分かっておられるのです。

 ですから、そういう心を決して叩かず、逆に傷(いた)んで受け止めてくださるのです。そういう勝他の心に翻弄されている悲しみの存在を感じてくださって、その悲しみのところにどこまでも一緒に居ってくださるのです。そして、「ご苦労さま。私はあなたのその悲しみを感じたら、何も言う言葉がありません。あなたのその悲しみのところに私の身を置いて、どこまでも一緒に生きて行きます」と、声にならない眼差しで、私の存在をそのようにご覧になられて、頭を下げて礼拝してくださるのです。

 そういう法蔵菩薩の眼差しと礼拝のお心が自分にも注がれていることを感ずれば、その眼差しと礼拝のお心は、自分だけではなくて、目の前の、自分が一番苦手だと思っている人にも、またそれ以外のどんな人にも向けられているお心だと知らされてきます。そうすれば、自分からはどうしても頭が下がらなかった人に対しても、自分のこの身の奥に流れている法蔵菩薩の御心を感じることを通して、頭の下がる世界を恵まれてくるということがあるのではないでしょうか。

 そういうふうに、どんな人にも頭の下がる世界こそ機の深信の世界ですから、一番苦手な人は、自分の憍慢や勝他の心を知らせてくださることを通して、自分にはとうていあり得なかった機の深信の礼拝の世界を開いてくださる仏さまだったと、そういうことが言えるのではないでしょうか。

 以上、誠に不十分ですが、Hさんのご質問に対しての私なりの返信とさせていただきます。合掌

2025年8月26日 宮岳文隆

コメントを残す