• 悩み多きわれら、親鸞の教えに「自身」を聞かん

(ブログNo.22)「本願招喚の勅命」―「お待ちしておりました」―

(2025年5月心光寺掲示板の法語)

「本願招喚の勅命」

「ただ 私を 待っておってくださった 仏様が信じられた ということだけが
私の 生かされていく 道だった」(大石法夫先生)

■今月の掲示板の法語は大石法夫先生の言葉です。また、この法語の題として私が勝手に付けさせていただいた「本願(ほんがん)招喚(しょうかん)の勅命(ちょくめい)」と言う言葉は親鸞聖人の言葉です。

 大石先生は、昭和十八年十二月、京都大学(法学部)を繰り上げ卒業して学徒動員で海軍に入隊しました。海軍では人間魚雷「回天(かいてん)」の搭乗員になりました。人間魚雷「回天」とは、魚雷を改造して魚雷の中に狭い操縦席を作り、その中に人間がもぐり込んで操縦しながら魚雷ごと敵艦に突っ込むという非情な特攻兵器です。一たび出撃すれば百パーセント死にます。大石先生は、出撃を目指して日々訓練に明け暮れていました。訓練が終ったあと、「このまま死んでいくのか。競争ばかりしたなあ。一度だって人間に生まれた甲斐があったという平和な日があっただろうか。ないとなったら、自分の人生は何であったのか。靖国神社に祭られたとしても何の意味があるのか。」という思いが頭の中をよぎりました。ところが終戦となって死をまぬかれたのです。もう少し戦争が続いていたら、間違いなく敵艦に突っ込んで死んでいたところでした。

 終戦後は、再び大学に戻って後輩たちに交じって法律の勉強を再開しました。しかし、回天の訓練中に頭の中をよぎった人生についての根本的な問いは心の中から消えませんでした。

 そのような不安な気持ちで過ごしていた頃、そんな息子の心中を察したお母さんが、お話をお聞かせいただいていた藤(とう)解(げ)照(しょう)海(かい)という真宗のお坊さんを大石先生に紹介されたのです。大石先生は、藤解先生に会ってお話を聞かせていただいている時、暗闇に一条の光が差し込んでくるような感動を覚え、就職も結婚も止めて藤解先生の門下生になる事を決心しました。

 こうして、大石先生は藤解先生の寺に入り真宗の求道を本格的に始めることになりました。実際は、師に許され結婚して夫婦で入門しました。二十五歳の時です。しかし入門したものの、何十年たっても容易に信心を得ることができませんでした。そして、入門してから何と三十九年後(正確には三十八年七カ月後)に、ようやく、そんな自分をずーっと待ち続けていて下さった仏さまの呼び声が、魂の底に聞こえてきたのです。先生六十四歳の時です。

今回掲示板に書かせていただいた言葉は、その時の大石先生の喜びの言葉です。

■この呼び声は、大石先生だけではなく、どんな人の中にも、久遠の昔から未来まで、いついかなる時も私どもを呼び続けているいのちの親の呼び声です。国を越え時代を越えて多くの苦悩の民衆が、南無阿弥陀仏という念仏の声の中に、この呼び声を聞き取ってきたのです。親鸞聖人は、この呼び声を「本願(ほんがん)招喚(しょうかん)の勅命(ちょくめい)」と言われました。「本願招喚」とは、私どものいのちの親である阿弥陀仏が、法蔵菩薩となって私どもと運命を共にして歩むという誓いを立てて、「あなたを待っていますよ」と私どもを呼んで下さっているということです。また「勅命」とは、元々は天子の命令という意味ですが、現代の言葉で言いかえれば、「真理」と言う言葉に置き換えることが出来るでしょう。いつでも、どこでも、どんな人に対しても、無条件に、平等に、この呼び声が私どもの魂の底に、宗教的な本能となって流れている、そういう永遠の真理ということです。

 真理ですから、この呼び声は、いつでもどんな時でも私どもの魂の底に流れています。けれども自分が調子のいい時はなかなか聞こえてきません。多くの場合、病気になって死の不安におびえたり、大事な人が亡くなったり、人がうらやましく見えて自分がみじめになったり、心が落ち込んで自分なんか生まれてこなければよかったのにと思ってしまうような時、すなわち自分がマイナスの状態にある時、あるいはまた、たとえ客観的にはマイナスな状態ではなくても、ふと心の中に空しさや人間関係の中ですきま風を感じたりする時、自分に先立って同じようなつらい状況をくぐった先輩が、「私もあなたと同じような空しさや苦しさを感じていた時、先輩の導きによって、そんな私がいのちの親である仏さまから、『その苦しいあなたを待っておりますよ。私はいつもその苦しいあなたのところにいっしょにいますよ」と呼びかけられていることに気がつくことができたのです。それに気づいてやっと私も前を向いて生きることができるようになったのです。ですから、あなたもどうかその呼び声に目覚めて、前を向いて生きてください。」と勧めてくださる、その勧めに出遇うことによって、私もまた、私の魂の底に流れていたその真理の呼びを聞くことができるのです。

 私どもが人間に生まれてきたのは、この真理の呼び声を聞くためであったと親鸞聖人や蓮如上人は教えてくださっています。

■この世界には沢山の情報が溢れていますが、そういう情報も(また財産も)死んでいく時みな消えてあの世に持っていくことはできません。しかしこの呼び声はどこまでも私から離れることはありません。私どもが人間に生まれて本当に知らなければならないものはたったの一つ。久遠の昔からずっと私を待ち続けてくださっているいのちの親の永遠の呼び声、南無阿弥陀仏です。

(二〇二五年五月二十五日)

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