• 悩み多きわれら、親鸞の教えに「自身」を聞かん

(ブログNo.20.)法蔵菩薩と他力について

(※ある方への返信というかたちで、法蔵菩薩と他力について考えてみました。)

■先に投稿した(ブログNo17)「南無阿弥陀仏の名号を聞くとは」及び(ブログNo18)「魂の永遠の流浪者」を読んで下さったある方から、ご自分の長い求道の遍歴を振り返りながら詳しい感想メールをいただきました。これは、そのメールに対する私からの返信をブログのかたちで書いたものです。

■よくぞここまで書いてくださいました。その求道の遍歴に手を合わせずにはおれません。

 「自分の中に、本物を探す方向は、行き着くところまで行ったので、諦めたのです」と書いておられました。「自分の中に、本物を探す方向」―この方向は、法蔵菩薩の方向と一見似ているようですが、実は全く違います。ブログNo17.No18をよく読んでいただければ、そのことがわかっていただけると思います。

 「自分の中に、本物を探す方向」。これは親鸞聖人が批判された「自性唯心に沈む」方向です。しかし、(ブログNo17、1頁)には、「法蔵魂とは何か。法蔵魂とは法蔵菩薩のわれらに対する絶対信のことである」と書いています。あるいは、(ブログNo18、5頁)には、われらの見失った本体とは、本願招喚の勅命、すなわち「汝、一心に正念にして直ちに来たれ、我よく汝を護らん、すべて水火の難に堕せることを畏れざれ」という阿弥陀仏(法蔵菩薩)の呼び声のことだと書いています。

 その意味で、法蔵菩薩は、どこまでも今までの自分の中にあるものではありません。今までの自分にとっては、どこまでも絶対彼岸からの呼び声です。曽我先生がおっしゃっておられるように、「法蔵菩薩は我なり。されど我(今までの我)は法蔵菩薩にあらず」です。括弧内は私が付け加えさせていただきました。

 

■ところが、ここからが非常に微妙で、曽我先生がなかなか伝統教学から受け入れられなかった点もそこにあると思うのですが、その招喚の声は、今までの自分にとっては絶対他者なる彼岸の声ですが、根本的には「外の声」ではないのです。むしろそれこそが自己の根元の声ではないかと思います。それで私は、本願招喚の勅命こそが、われらが久遠の過去世において見失った我らの「いと尊き本体」とあえて書きました。

 すなわち、われらは「外」なるものに依存することによっては、本当には救われることはないのです。そのことを、穂積純さんは、「外幻想では私に回復はありえない」と書いておられます。「どこかに全能の他者がいて、それに出会いさえすれば救われる、あるいは宗教や様々な活動など、自分の外に救いや解決があると信じること。私はそれを『外幻想』と呼びます。(中略)『外幻想』では私に回復はありえない。(中略)自分から遠くに捜せば捜すほど、自己の内側は空しく枯渇してゆく。」(『拡がりゆく魂』194頁)と書いておられます。

■この穂積さんの文章を引用したのは、曽我先生が『本願の仏地』の中で述べておられた言葉とよく似ていたからです。
 それは次のような言葉です。
 

 「信というものの根元・原理をば信の中に求めることが出来ずして、さうしてその根元、信ずる所以の根拠といふものを信以外に求めて行く。つまり信じようが信じまいが仏さまといふ不思議の力を有つておいでになるものがあって、それが自分を助けて下さるものである、さういうことをただ自分は信ずるだけでありまして、信ずるといふことその事の中に仏さまの不思議な力といふものが、信ずる謂れとしてあるのではない、信以外に仏さまといふものがある、即ち信といふものそれ自身に満足しない。信それ自身の中にあらゆる原理・根元といふものを見出すことが出来ずして、信といふものは全く無能力、何等の生命もない、信ずるといふことはさうであろうかといふくらいに思うことである。之が世の中の人の云っている信でありまして、それに間違ひないと口には云って居るけれども、腹の中にはさうであらうくらいに思うことを信ずることだと一般の人は考えているのだらうと思うのであります。けれどもそんなものは信仰でも何でもないと思います。」(『曽我量深選集第五巻』234頁~235頁)

 あるいは次のような言葉です。
 「信以外に仏といふものを思い浮べ、仏の本願といふものを思い浮べ、また仏の救済の力といふものを思い浮べ、お浄土といふものを思い浮べて来る。ところがそういうものを思い浮べる程信仰といふものからだんだん懸け隔てて来て、益々信といふものは力の無いものになってしまふ。」(同書235頁)


■ただ、今まで外幻想を生きたのは無駄だったのか言えば、そうではなかったとも穂積さんは書いておられます。「子どもにとっては全能の他者は存在する。子どもには親や大人は全能の他者です。だからまず外に求めたのは、子どものまま成長の止まってしまった私にはごく自然な要求だった。しかし、現実ではすでに幼い子どもではない私が破綻するのは当然でした。私は破綻しなければならなかったのです。(中略)ですから、回復の主体は自分だという思想は私の出発点であったと同時に、(その外幻想を)完全に破綻できたことによってはじめて自分の血肉となった到達点でもあったのです。」(同書194頁~195頁。括弧内は私が付け加えさせていただきました。)と。

 私は、穂積純さんが苦しい歩みを通して確かめられたこのような認識に深く共感します。親鸞聖人の他力本願の教えは、本来この方向にあるものだと思います。通常理解されている他力本願の教えは、この点において誤解されている点が多いように思います。本願力は、今までの自分においてはどこまでも絶対他者(その点においては厳しい)ですが、本願の呼びかけによって新しく開かれた本来の世界からみれば、本願力、すなわち法蔵菩薩の願心は、他力と言われていても、われらの本来力、根本力と言ってもよいものでしょう。他に依存することではないと思います。

 その意味から言えば、私どもが通常「内」と思っているものこそ、実は「外」なのです。

 

■また、Mさんは最後に、「今の私は、機の深信がしっくりしています。私の人生航路で行き着いた場所でした。もう、降参するしかなくなりました。そんなところを歩んでおります。」と書いてくださいました。長い遍歴を経て、そういう場所に行き着かれたMさんの求道の歩みにただ頭が下がります。

 Mさんのおっしゃっておられる機の深信とは、中国の善導大師が、「決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず」と書いておられる言葉のことです。わが身は、現在も、過去も、未来も、ずーと迷い通しで、救われようのない身である。その身を、如来が無条件に信じ、受け止め、身を一つにして生きてくださる。そういう、如来のわが身に対する絶対信をあらわす言葉です。善悪で生きてきた今までの私からすれば、絶望としか思えず、とても救いとは思えない世界です。しかし、善悪に一喜一憂する今までの自分からは決して開かれなかった世界で、いつでも、どこでも、誰に対しても、善悪を言わず無条件に呼びかける本願招喚の勅命、呼び声の中に帰ることによってのみ、始めて開かれる世界です。全否定であると同時に如来の全肯定の世界です。

  Mさんもおっしゃっておられますが、この機の深信こそ、自己が久遠の過去世において見失ってきた自己の永遠の帰り場所ではないかと思います。Mさんは、「私の人生航路で行き着いた場所でした。もう、降参するしかなくなりました。」と書いておられます。ようやく帰るべき世界に帰ることができたという深い喜びが伝わってきます。このような求道の歩みをされたMさんに頭が下がります。

 

■このことから私は思うのです。如来はいかにして私を救いたまうか。こう問えば、如来は外から私を救われるのではありません。信心となって、私を救われるのです。その信心とは、具体的には機の深信です。如来は機の深信となって私を救ってくださるのです。そのように言うことができると思います。そのような如来のことを、私は法蔵菩薩といただいているのです。

■ところで、これはMさんとは別な方ですが、今年80歳になられたある同行さんが、「つい最近ふと40年程全国縁のある所へどこへでも出かけて行っていたが、今振り返ると、本当に聞法していたのは法蔵菩薩だったのではと思わされました。」とお手紙に書いておられました。

 また、小林光麿師が、ご著書『韋提希の救い』の中で、次のように書いておられたのをこの方の言葉から思い出しました。

 「私の郷里、滋賀県に小嶋敬治さんという方がおられます。この方が若いころ、仏法に親しんでおられた叔父さんから、『お前さんがここへ来たのだけれども、お前さんがここへ来たのではない』といわれたことを、五十数年も経た今ごろになって、ようやくその意味が了解できるようになった、といっておられました。この意味がおわかりでしょうか。私たちが今日ここに来ているのは事実であるが、これは私が来ていると思っているが、私が来ているのではない、私を超えたものが私をして足を運ばしめられている、つまり他力である。こういう意味がようやくわかるようになりました。」(同書44頁)と。

 Mさんも、私への返信メールの中で次のように書いておられました。

 「求道的魂(存在)という言葉に深く頷かされます。というのも、(それは)私の中を貫いているものだからです。そこは、自分ながら不思議としか思えません。どうして、こんなエネルギーが湧き出るのか分からなかったからです。だから、そういう魂だと言われると、なるほどそうだったんだなあとおもうのです。」と。

 今まで様々な宗教遍歴をしながら求めてこられて、自分でもこんなエネルギーがどうして湧き出るのか不思議としか思えない。けれども、それが私の中を貫いているものだと。それを、自分の中にあった自分を超えた求道的魂だと聞いて、なるほどそうだったんだなあとおもうと書いておられます。
 何度読んでも頭が下がる文章です。Mさんを動かしている求道的魂にただ手が合わさります。その求道的魂は自分の中にあっても自分を超えた法蔵菩薩の本願招喚の働き・勅命そのものです。

 

■先の同行さんや小林先生やMさんのこれらの言葉によって、他力とは、私の外なるものに依存することではなく、私の見えない背後、底、根元に働いていて、私をして歩ませていた本来の力に目覚め、その力を新しい主体として生きることであったということを頷かせていただきます。

 そういう、私の見えない背後、底、根元に働いている私を超えた力のことを、親鸞聖人は、「如来の欲生心」という言葉で表現されておられるのだと思います。

 「『欲生』と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。」(真宗大谷派初版本聖典232頁)と。

 そういう「如来の欲生心」が、われらの底、根元に、われらを超えてはたらいて、私をして歩ましめている。それが、Mさんが感じておられる求道的魂ではないかと思います。
 私は、そういう私の見えない背後、底、根元に働いている私を超えた力を、法蔵菩薩、あるいは「もうひとりの自分」というような言葉によって、自分なりにいただいていこうとしているわけです。          (2025年4月4日投稿・2025年8月5日加筆訂正)

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