1.2023年11月26日村上不退師法話
《講師のプロフィール》
【村上不退(むらかみふたい)師】
福岡県大牟田市在住。昭和20年1月、福岡県大牟田市に生れる。本名村上博明。昭和43年3月、熊本大学法学部卒業。昭和43年4月、(株)東京プレス入社。昭和45年6月、(株)東京プレス退社。昭和45年10月、父親が経営する(有)村上屋(パン販売)の仕事に就く。宗教には全く関心無かったが、平成3年12月母親が亡くなり手継ぎ寺の浄信寺で母親の葬儀を行ったことがきっかけとなって、浄信寺の同朋会に出席するようになり、聞法の歩みが始まる。浄信寺の報恩講で百々海冷師(東京都港区、了善寺住職)に出会う。また百々海師の紹介で江本忍師(大分県三光村、長仁寺副住職)に出会い、江本師の勧めで、平成7年10月、別府市で開催された念仏交流会に夫婦で出席。その法座において、生涯の師大石法夫先生(当時広島市、法林寺副住職)に出会う。平成7年12月、父親から引き継いだ(有)村上屋を廃業する。この頃燃え尽き症候群となり生きていく方向が分からなくなる。江本忍師が、平成8年6月24日から7月19日にかけてブラジル布教に行かれることになり、その随行をする。平成9年4月、京都大谷専修学院本科入学。平成9年6月、真宗大谷派僧侶として得道(法名釋不退)。平成10年3月、京都大谷専修学院卒業、真宗大谷派教師となる。平成11年3月、夫婦で相談して大石法夫先生を招聘するための聞法道場を建立し、毎月10日に大石先生の法話会を開催する。道場名は大石先生に相談して「村上道場」と命名する。平成20年5月、大石法夫先生が死去された後、仏法が全く分からなくなる。平成21年1月から、十時舜悟師(福岡県柳川市、光善寺住職)の勧めで、『大石法夫先生直筆書信集』の輪読会を同信の人々と共に月に一回村上道場で開催し、今日に至っている。
■法話録画(前半)
■法話録画(後半)
2.20211年11月28日藤谷純子師(大分県宇佐市勝福寺坊守)法話
【講師プロフィール】
一九四八年(昭和二十三年)茨城県笠間市に生まれる。一九六八年(昭和四十三年)金沢大学法文学部(国語国文科)に入学。入学後、精神上の悩みを問い続ける歩みの過程で出雲路暁寂先生と出遇い、出雲路先生の勧めで金沢大学を休学して京都大谷専修学院に入学。専修学院在学中、院長の信國淳先生との出遇いにより念仏の道に帰入される。その後金沢大学に復学され、一九七四年(昭和四十九年)金沢大学を卒業。一九七五年(昭和五十年)茨城県立高等学校の国語科教員として七年間教鞭をとられる。その後、一九八一年(昭和五十六年)大分県宇佐市の勝福寺副住職(現在は住職)藤谷知道氏と結婚。現在は勝福寺坊守として勝福寺の御門徒・御門信徒とともに熱心に真宗の教えを聴聞されるとともに、県内外で真宗の教えについての法話、講演活動を続けておられる。
心光寺においては、二十年ほど前に心光寺仏教婦人会の講師としてしばらくご指導いただいたことがあります。
【著書】『南無仏の御名なかりせば』(真宗大谷派日豊教区出版委員会)『法話CD・念仏の光の中に』(東本願寺)
【前半】
【後半】
3.2025年11月23日奥村良和師(福岡県上毛町「称名庵」庵主)
【講師プロフィール】
一九四九年(昭和二十四年三月)生まれ。現在七十六歳。父は浄土真宗本願寺派の光林寺に僧籍を置く僧侶で光林寺の法務に携わっていた。小学校四年生頃から光林寺の書庫で「世界少年少女文学全集」等子供向けの本を読み始め、読めるものは全て読む。「書庫は宝の部屋だった」という。中学校でも図書室の本を全部読んだ。しかし高校に行ってから本はあまり読まなくなる。高校卒業後一旦就職するが長続きせず、自分が何を求めているか分らず、東京周辺を放浪。また中津の八面山の大池湖畔で一カ月半テント生活をしたこともある。二十四歳の時父が交通事故で急死。五十五歳だった。父は生前「お前はどうしたら真面目になるのか。わしが死んだらいいのか」と泣き出したことがあった。父の臨終そのシィーンが蘇り、後悔の涙が止まらなかった。そのことがきっかけとなって父の後を継いで僧侶となり、光林寺の法務に携わる。父は自分を導く為に早めに道を譲り浄土へ還ったと思えてならず、真の念仏の信心を得るべく仏法聴聞を始める。教えの最初の師は光林寺老院の大神恒麿師であった。その後広島市の大石法夫先生に師事。自宅を明星庵(現在は称名庵と改名)と命名して聞法道場を続ける。二〇〇八年(平成二十年)師の大石法夫先生逝去。その後は師の月命日である毎月十三日に師の残された書信を輪読する会を続けている。三十歳頃から、「法乳」と名づける聞法誌に念仏の味わいを書いて月一回発行。四十一年間発行し続け今月号で第四四六号となる。二〇二〇年(令和二年)古稀記念としてそれまで発行した「法乳」を本にして自費出版した。
【前半】
【後半】