• 悩み多きわれら、親鸞の教えに「自身」を聞かん

住職(宮岳文隆)プロフィール

・1950年(昭和25年)4月 大分県(湯布院町)に生まれる 。
・住 所  〒879-5113 大分県由布市湯布院町川西3127       
・電 話  ☎0977-84-4441 、携帯電話 080-9244-9729
・メール  rakuzai@atbb.ne.jp

【私と真宗との出遇い】
 私は真宗寺院に生れましたが、当然ながら、それだけで真宗の教えに出遇えるわけではありません。
 私と親鸞の教えとの出遇いは、高校1年生の時に遡ります。私は、高校入学後、1カ月程して、担任教師の勧めにより、担任教師の下宿(下宿といえるかどうかは疑問ですが)先であった万寿寺という大分市内にある臨済宗の修行専門道場から高校に通うようになりました(今思えば、それが私の人生の最初の大きな分岐点となったわけです)。それは、私にとって全く異次元の世界へ突入したような大きな文化ショックでした。なにしろ、大学受験を目指す高校生の生活から、周囲は悟りを目指して修行する雲水ばかりという修行道場の渦中へと、生活環境が一変したわけですから。
 そうした大きな環境変化の影響もあり、私はやがて、親鸞の弟子である唯円が聞き取られ、30数年経ってもなお耳の底に残っていた親鸞の言葉を書き記された書『歎異抄』に出遇い、真宗信仰の中にのめりこんでいったのです。ただ、当時の私の信仰内容は、「念仏を信じて来世の浄土往生を期してこの世を生きる」という伝統的な教えを文字通り信じるものでした。同級生は皆大学受験まっしぐらの中、私は学校の勉強はそっちのけで、信仰の世界へとのめりこんでいったのです。
 ところが、高校3年生の秋、敬愛する一人の友人との議論が引き金となって、私の信仰は根底から崩壊してしまったのです。しかし、そのことによって、真実の信心を得たいという思いはかえって強まり、大谷大学へと進みました。しかし、大学では結局ものにならず卒業し、心定まらないまま帰郷して、役所に就職しました。その後結婚し、三人の子供が生まれました。
 しかし、それから間もなくして、家庭においても心光寺の門徒中においても精神的な支柱であった母が、癌に倒れて急逝しました。そういう状況の中で、妻が、夫婦間の問題や舅との問題、ご門徒との軋轢や子育ての問題等々で行き詰っていきました。また私も、身辺にそういう様々な問題を抱えつつサラリ-マン生活を続ける中で、僧侶としての自信を見失い、教えもどこかに消えていってしまい、大谷大学に行ったこと自体を後悔するような人間になっていきました。
 そういう時期がちょうど子育ての時期と重なりました。自分自身が生きる方向を見失い、深い闇の中をさ迷っている時期に子育てをしたわけですから、子育てにおいて一番大事な人生観が定まっておらず、3人の子供たちに対しては、本当に申し訳なく思っています。
 そうした精神的な闇路の中で、50歳の時、【ホームページメニュー】「大石法夫師に聞く『心光寺定例聞法会便り』について」の中の「私と大石法夫師と出遇い」の中に書いたような大石法夫師との出遇いがあったのです。
  私は、何とかして師の出遇われた世界に出たいと念願し、役所も早期退職し、妻と共に広島の師の下へと通い続けました。しかし、師の在世中から没後においても、師に向かう私自身の精神の立ち位置は定まっていませんでした。
 「一体私は師に何を求めているのか。単に師を憧憬の対象としているだけではないのか」、そのような自問と模索を経て、やがて私は、それまで逃れようとしてきた自己の煩悩や迷いや心の闇の方へと焦点が当たってきたのです。すなわち、私が見失っているものは、むしろ煩悩や迷いや心の闇の方であり、教えによってそういう自身を知らされていく中にこそ、法蔵菩薩の呼び声に出遇っていける道があるのではなかろうか。そういうふうに、求める方向が、それまでとは180度変わってきたのです。そして、そこから師の残された言葉に向かい直す時、今までと違う世界が、徐々にですが微かに聞こえてくるようになりました。
 現在は、間もなく古稀となる年齢ですが、、宮沢賢治の『春と修羅』という詩の中に、「四月の気層のひかりの底を  つばきし はぎしりゆききする おれはひとりの修羅なのだ」とある如く、日々煩悩深く、宿業の出来事に翻弄され、右往左往する生活を送っています。そのような生活の中で、親鸞聖人や大石法夫師をはじめとする多くの先達方の導きを受けながら、阿弥陀仏が、宿業に喘ぐわれらと身を一つにして歩もうと誓われた法蔵菩薩の呼び声を聞かんとする遅々たる歩みを続けています。  (2019年10月末記)