• 悩み多きわれら、親鸞の教えに「自身」を聞かん

(ブログNo17)南無阿弥陀仏の名号を聞くとは自己自身を聞くこと

「南無阿弥陀仏の名号を聞くとは自己自身を聞くこと」

■名号を聞くとは、法蔵魂を聞くことである。

 法蔵魂こそが真実の自己自身である。

 法蔵魂とは何か。法蔵魂とは法蔵菩薩のわれらに対する絶対信のことである。

々がどんなに堕落し自暴自棄しても、法蔵菩薩はどこまでもどこまでもわれらを信じ続けられる。

■【引文①】「自分は孤独の者でも、世界中の人から憎まれても―自分が人を信ずるということがあるならば、また人に信ぜられるということもあろうが、しかしそれは相対信。仏さまに信ぜられているとは、これは絶対信。―私どもはまず仏さまに信ぜられている。必ずお前は助かる。どんな邪見、また堕落しようとも必ず助かる・・・こう仏さまに信ぜられているということ、これわれらの信心のもとである。それを私どもは仏性と言う。(中略)私どもは誰に信ぜられなくとも、阿弥陀如来(法蔵菩薩)に絶対信ぜられている。これが仏性―仏性の自覚というものである。何も私が徳を持っているから信ぜられるのでない。何も徳などない。信ぜられるような徳など何一つ持っておらんのに、阿弥陀如来(法蔵菩薩)は私をちゃんと信じておられる。そこに私どもの信の根元というものがあるに違いない。それを、『大信心は仏性なり』と仰せられたに違いない。」

(曽我量深師『曽我量深講話録』二―96頁)

■必ずお前は自分自身を尊び、自信を持って自分の道を歩んでいくことができる。どんなに邪見憍慢悪衆生であっても、私はお前を見捨てることはない。お前の罪の身に責任を負い、お前と身を一つにして歩んで行く。だからお前も必ず自己の罪の身に責任を負い、その身を逃げずに、歩んで行くことができる―こう法蔵菩薩によって信じられている。これを法蔵菩薩の絶対信という。

■世間で信じるというのは相対信である。これは条件によって信じているだけなので、条件から外れると、「こんなやつとは思わなかった」と捨てる。絶対信は無条件。われらがどんな人間であろうとも、決して捨てない。「私はお前を待っておるのだぞ。お前の存在そのものを待っておるのだぞ。久遠の昔からずっと待ち続けておるのだぞ」と呼び続けている。この法蔵菩薩の絶対信がわれらの本体である。自分自身である。

■【引文②】「自分自身、これは親よりもっと先に自分自身・・・自分のからだは親から生んでもろうたが、自分自身まで親から生んでもろうたのでない。(中略)親から生んでもろうには、生んでもろう自分自身が一番もとにあるに違いない。仏教では、それを教えてくださる。だから『わが身は』と―わが身とは、自分自身ということ、おのれの肉体というのでない。わたくし自体とか、わたくし自身、、そういうことを『わが身は』と、こう仰せられたのでありましょう。だから私どもはまずわが身を信ずる。それが根本。仏さまを信ずる、そのもとはわが身を信ずるのが根本にある。自分の五尺六尺のからだとは夢幻のような一生で、始めあり終わりありであって、夢幻のようなものであるが―人類の発生した昔からやがて人類が滅亡して亡くなるまで、どれだけの年代があるかわかりませんが、―(中略)自分は何か知らんが、自分とは少なくとも、その何十万年の、先に、はや自分とうものが、ちゃんと何か、そこから始まっている。そういうように・・・そういうことはハッキリしたことは分かりませんが、自分はいつか知らんが、昔から自分はおるのである。(中略)そういうことが教えを聞くとわかります。」

(曽我量深師『曽我量深講話録』二―168~169頁)

■名号を聞くとは、この一番元の自分自身を聞かせてもらうことである。そのとき深い喜びが起る。これを「信心歓喜せんこと乃至一念せん」と『大無量寿経』に述べられている。

■【引文③】「我々は寺に参って話を聞いて、善知識の教えを通して南無阿弥陀仏に触れるという。だから聞其名号というんですけども、しかしなんぼ聞いても無いものなら頷けんのじゃないか。南無阿弥陀仏の話を聞いて頷くというけど、そういうことはどうして出来るか。(中略)それは我々の中に南無阿弥陀仏があるからなんです。聞いてから南無阿弥陀仏に触れるというんじゃない。聞く以前から我々は南無阿弥陀仏の中におる。我々の全身全霊に南無阿弥陀仏が行じとるからだ。本能として、我々は親の腹から生まれたというんじゃない。南無阿弥陀仏の中に生まれて来とるんだ。南無阿弥陀仏の中に生まれながら、南無阿弥陀仏の外のことを考えておった。気が付いてみたら求めるものの中に自分がおるんだ。ああこれであったかと、こういって自分の膝をたたくのは何かというと、本来持っておる南無阿弥陀仏が聞いた南無阿弥陀仏で膝をたたくんです。それでなければ膝のたたきようがない。頷くということはどうして可能か。我々本来南無阿弥陀仏の中におるから、南無阿弥陀仏の話を聞いてああこれだと、これだという時には自分の持っておるものに気がつくことです。外の噂話を聞いとるんじゃない。それだったら頷くということは出来んはずだ。」

(安田理深師『はじめに名号あり』163頁)

■【引文④】「善知識の教えを通して自分を聞くんです。ああこれであったかと頷く。それだからして本来本願がどこかにあるというのじゃなく、根本本願は我々の根本にあった。その中に我々は生まれ死んでいった。そのことが明らかになったということが信心獲得。(中略)根本本願を離れたら、信心とか何とかいってみたところで、ただ気持ちが変わったということに止まってしまう。良いことを聞いたとか、新しい知恵を得たとか、そんな程度で止まってしまう。そんなものは信仰でも何でもない。自分の存在に感動するんだ。そこに南無阿弥陀仏がある。自分の全存在というものの中に南無阿弥陀仏があるんです。我々は南無阿弥陀仏の水の中につかっとるんです。それに気が付くんです。そういうものを根本本願という。それは四十八願には書いていない。我々の全身全霊にある本願だから、かえってそれが四十八願の本なんだ」

(安田理深師『はじめに名号あり』164頁)

■この法蔵魂が誰の中にもあるのである。それを仏性という。親鸞聖人は「大信心は仏性なり」(聖典487)と述べておられる。大信心とは、法蔵菩薩の絶対信のことである。

法蔵魂のみが獲得できる自己自身である。「できること」(能力)「したいこと」(願い)「しなければならないこと」(使命)の一致である。他の一切は、所有することはできても、獲得することは決してできない。 ■法然上人が「一心専念弥陀名号…」の呼び声によって出会われたもの、それは苦悩の群萌の中から胎動し逆流してくるこの法蔵魂だったのではないか。そして親鸞聖人が法然上人の「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という仰せを通して聞き取られたものも、この法蔵菩薩の呼び声だったのではないかと思います。

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