• 悩み多きわれら、親鸞の教えに「自身」を聞かん

(ブログNo.33)救いからもれる者の救い

     ―「唯除の問題」について

【はじめに】
 探し物をしていて、2012年12月27日に「唯除(救いから除かれる者)の問題について」フェイスブックに投稿した文章に偶然出くわしましたました。今から14年も前に書い文章ですが、再読してみて改めて納得しなおすところも多かったのでブログに投稿することにしました。

 

■法友のH.H.さんがフェイスブックの投稿で、
「唯除の問題について最近考える。法話で聞くたびに毎回考える。何回聞いても零になる感じがする。聞くしかない」
と書いておられました。
 唯除の問題は本当に大事な問題だと私も常々思っていますので、この投稿を読んで、この機会に私なりの受け止めを書かせていただこうと思った次第です。最初はH.H.さんの投稿ページのコメントとして書こうと思ったのですが、書き始めたら長くなりそうに思われたので、私のページの投稿として書かせてもらう方がよいと思いまして、以下の通り書きました。かなり長文の投稿となりましたことをお詫びいたします。

■一切衆生の救いを誓われている第十八願文に、なぜ「唯、五逆と誹謗正法を除く」(註・「五逆」とは、仏教において非常に重い罪とされた次の五つの罪。父を殺す罪、母を殺す罪、悟りを得た聖者を殺す罪、仏陀の体を傷つける罪、仏教の教団の和合を壊す罪のこと。「誹謗正法」とは、正しい教えに背く罪のこと)という除外規定が付けられているのか。古来多くの先達方はこれに悩まされてきました。できればこの文は、ない方がすっきりと分りやすく第十八願文の心をいただけるのにと思われたに違いありません。けれども経典に明確に置かれている文なのでどうにもなりません。それで苦労して色々と工夫した解釈がなされてきました。

 その代表的なものが善導大師の抑止(おくし)門と呼ばれた解釈です。それはどういう解釈かというと、阿弥陀仏はどんな衆生も摂取すると呼びかけているけれども、釈尊がそれを説くに当って、それを最初からストレートに出してしまうと、「じゃあ欲望にまかせて悪いことをやっても救われるから大丈夫だ」と間違って受け止める者が出てくるのではないかと心配されて、それを制止するために唯除の文を付け加えたのだという解釈です。つまり前半部分の「もし救われない衆生が一人でもいたならば、私はそういう世界を決して私の正しい覚りの世界とはしない」という言葉までは阿弥陀仏の言葉ですが、後半部分の「唯五逆と誹謗正法を除く」という言葉は釈尊の言葉であると。だから善導大師は、第十八願を掲げられるときは、この唯除の文を削除しておられます。法然上人も同じです。

■ところが親鸞聖人は、第十八願文を引用される際決して唯除の文を省略されることはありません。本願成就文においても同じです。ということは、親鸞聖人は、本願文と唯除の文を一体不可分のものと受け止めておられたに違いありません。恐らく親鸞聖人は、本願文にこの唯除の文がなかったら自分に救いはなかったと考えておられたに違いありません。

 世にはいろいろな宗教があり救いを説いていますが、救いが説かれても、その救いから漏れてくる者が出てきます。親鸞聖人は、そういう存在を自分自身に重ねられて、例外者を決して生み出すことのない究極の救いを唯除の文の上に直感されたのではないかと思います。その意味で、『無量寿経』のサンスクリット原本において既に唯除の文が置かれてあることに、私は言い知れぬ感動を覚えるのです。

■親鸞聖人は、唯除の文において、五逆と誹謗正法の外に一闡提(いっせんだい)も含めてその救いを問うておられます。一闡提とは、教えに全く関心がない者、救われる可能性が皆無の者(根欠)のことです。誹謗正法は、まだ教えを謗(そし)るというかたちで教えとの関係を持っています。しかし、一闡提は、教えに無関心なので、教えと関係すらなく、救われる手掛かりが全くありません。

 親鸞聖人は『教行信証』「信巻」の表紙裏に、父王を殺して王位についた王の名を列挙した『涅槃経』の悉知義(しっちぎ)の文を、何の説明もなく引文しておられます。悉知義の文とは、父王を殺してもケロッとしていた歴史上の王たちの名を列挙している文です。正に歴史上に実在した一闡提の者の名を列挙している文なのです。親鸞聖人がなぜこの悉知義の文を『教行信証』「信巻」の表紙裏に引文されたのか。謎のような引文ですが、おそらく親鸞聖人は、この引文によって、教えに全く関心がなく救われる可能性が全くない者の救いを自分の問題として問うておられるのでしょう。

■ところで親鸞聖人は、『教行信証』「総序」において「世雄(せおう。釈尊のこと)の悲(慈悲のこと)、正しく逆謗闡提を恵まんと欲(おぼ)す」と書いておられます。文面上は、釈尊が、逆・謗・闡提(五逆の者と正法を誹謗する者と一闡提の者)に救いを恵まれたという意味でしょう。ところが、宗正元先生は、これを全く逆転されて、釈尊が逆・謗・闡提から大事なものを恵まれたと話しておられたのをどこかで読んで、「ありゃー!」と驚いたことがあります。

 釈尊(ひいては阿弥陀仏)は、救われない者を外から慈悲をかけて救おうとしておられた。その自分の不明と高上りを逆・謗・闡提の存在によって知らされたと。そして、高い所におった自分を大地に引き戻してくれた存在として、逆・謗・闡提に頭を下げて感謝しておられると。「ああ、どうにもならない業縁の身を生きているあなたを、私は外から救おうとしていた。その傲慢さをあなたが知らせてくれた。そして、私を宿業の大地に引き戻してくれた。有難う!」と。そして、その救われない存在に身を投じて、身を一つにされて、何処までも運命を同一にして歩んでいこうと誓われたと。

 そういう阿弥陀仏の究極の救いをあらわしているのが唯除の文ではないかと思います。ですから唯除の文は、阿弥陀仏が、説法を捨てて、究極の救いの直接行動に出られた叫びではないかと思います。ですから、教義ではなかなか説明できない所があると思います。

■慈悲にも小悲、中悲、大悲があります。小悲は「衆生縁の慈悲」と言われて、人間の慈悲(ヒューマニズム)によって何とかしようとする慈悲です。中悲は「法縁の慈悲」と言われて、仏法の道理を覚った智慧によって何としようとする慈悲です。しかし、いずれもどうにもならない者を外から何とかしようとする慈悲です。それに対して大悲は、「無縁の慈悲」と言われています。

 「無縁(むえん)の慈悲」とは、一般的には、関係性や条件にとらわれず、すべての衆生に平等に注がれる仏の広大な慈悲のことだと説明されています。ところが曽我量深先生は、それをさらに突っ込んで、「無縁の慈悲とは、無有出離之縁(むうしゅつりしえん)の慈悲のことだ」と言っておられます。「無有出離之縁」とは、善導大師の「機の深信(じんしん)」の文の中に出てくる言葉で、現在も過去も未来も「出離(たすかる)縁が有るだろうかいや無い」と述べられている、救いが全くない自分自身の身を無条件に受け止めて信じるという信心です。言いかえれば、「無有出離之縁の慈悲」とは、阿弥陀仏が救いの縁が全くない身と一つになるという阿弥陀仏の究極の慈悲のことです。

 つまり、阿弥陀仏が阿弥陀仏の座を降りて、現在も過去も未来も出離の縁が全く無い身の中に飛び込まれた究極の慈悲のことです。これは、「如来、我となりて、我を救いたまう」(その我とは全く救いのない我のこと)と曽我量深先生が言われた法蔵菩薩の慈悲のことです。

 実に破天荒な受け止めです。これはもはや教義の次元ではないと思います。各自が宿業の現実の中で歩んで確かめていく外ないもののような気がします。

■佐野明弘師は、「たすけてください」の叫びが、業縁の身を生きるあらゆる衆生の最後の叫びだと言われます。その叫びは、あらゆる人の根底を貫く存在の声なので、その声の所で、われら衆生は始めて通じることが出来る。共振することが出来ると言われています。

 つまり、「たすけてください」の声は、たすかっていない者が発する叫び声です。そして、そのたすからない声と一つになっておられるのが法蔵菩薩です。ですから、「たすけてください」の声は、われらの上における法蔵菩薩の名告りの声だと思います。

■以上、唯除の文は、除かれる存在とどこまでも一つになって歩み続けようという法蔵菩薩の叫びであり、これこそ、われらの「究極的責任主体」の直接的な名告りの声ではないかと思います。それが南無阿弥陀仏の名告りなのです。

■唯除の問題は、例外者の救済という問題です。ですから、生き辛さを抱えた現実がいよいよ押し寄せている現代において、ますます重要になってくる問題だと思います。これからの若い人たちに、現実の課題の中でこの問題を掘り下げて解明していってほしいと期待しています。親鸞聖人の教学は決して完成済みのものではないと思います。問題を提示して更なる展開を次代に託しておられるという面があると思います。ですから、書かれたものだけを教義として研究しておればよいというものではないと思います。

 以上、まとまりませんが、これで終ります。

 支離滅裂な長い文章になってしまいました。すみません。

【H.H.さんのコメント)】

 お話をこういった形で聞けるとは!ありがとうございます。

高あがりしてたところを逆謗闡提によって気づかせられるというところ、そういうふうな解釈もあるのかと驚きました。

 自分で読んでどう受け取るか。書かれたものだけを教義として研究しておれば良いものでないというところは、本当にそうだなと思います。

 わたしはいろんな方のお話を聞いて、その方の受け取りから「自分はどうだ」ということを考えていきたいと思います。最近はそういうことしかないなと思っております。

 先生の受け取りから、法蔵魂を思います。除かれるのは、共に歩むから。ずっと先生が向き合われていることが、同じことを考え、お話を聞くことで、わたしにも底のところで流れてくる、と思いました。

 自分の中の唯除との対話はまだまだ続きそうです。

【K.S.さんのコメント】

 2018年10月、熊本市の真宗寺にて宗先生が、「大悲それ自身は自らを批判していく」と言われていました。

 宗先生にお会いするまで、ずーっと、お念仏が口から出ることで助かっちゃう人や助かってきた人の話を聞かされて、僕はずーっと、自分自身がその法話から疎外視されているような、漏れているような感覚がありました。どこへ行っても、(その話から自分は)「漏れる」話をされていて、法話なんだろうけど、「法話」じゃないということを想いましたね。安倍はアカン、あいつはアカンというような、法話であるのに「法の話」ではないというですね。だから、僕はずーっと、「法話」とは何なのかと考えてますね。漏れる人を生産する法話ではない法話とは?

 そういう中で、宗先生や佐野さんの話を聞くと、僕は「漏れる」話ををしていないと想いました。

 直接的ではないですけれど、僕は宗先生から、「唯除」ということを「まわりからききなさい」という言葉で示唆していただきました。

                                          以上

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