〇〇さんこんにちは。回心についてのご質問ですね。回心については、ご存知のように『歎異抄』第16章に、「一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。」と述べられています。この「ひとたび」というのは、「日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらする」という私どもの精神上の転換の出来事のことを言っているのですね。回数のことを言っているのではないのです。
そういう精神上の転換という出来事は、一度経験すれば、また折に触れては新しく反復されていくものでしょう。そして、それは、毎回、初事のような新しい感動をともなうものでしょう。それは、過去の記憶ではないからです。「ただひとたびの回心」を折に触れては反復する。その歩みが始まるということでしょう。
その回心の内容については、曽我量深先生は「信に死し、願に生きよ」という言葉であらわされています。肉体の死をも突き抜けて「無辺の生死海を尽さん」という終わりのない法蔵菩薩の願心に生きる歩みに出発するということです。「無辺の生死海を尽さん」というのは、底も無く果てもない衆生の迷いの海を、どこまでも尋ねていこうという法蔵菩薩の願心のことですね。迷いや苦悩を嫌って、迷いや苦悩のない世界を求めている日ごろのこころとは、方向が全く逆になっていますね。
法蔵菩薩の願心といっても、南無阿弥陀仏の名号を聞信する実感の中身をそういうふうに表わしたのですね。法蔵菩薩を実体化して考えると間違うようです。そして、その実感の中身は、機の深信です。機の深信とは、善導大師が『観経疏』の中で、「決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず」(初版『真宗聖典』215頁)と述べられた自分自身についての深い自信のことです。親鸞聖人は、これを「われらが無上の信心」「すなわちこれ真実の信心なり」(同222頁)とはっきり述べておられます。
わが身は、過去・現在・未来を通じて迷いの身であると深く信じる。これがなぜ真実の信心なのかというと、この頷きの主体は、私の心ではなく、我らの身を根本的に摂(おさ)め取って捨てず、どこまでも我らと同体となって運命を共同するところの法蔵菩薩の頷きだからです。だから、この頷きのところに、わが身は、法蔵菩薩の絶対信によって、完全に、根本的に、徹底的に救われ了(おわ)っているという確信があるのですね。だから親鸞聖人は、この頷きを真実の信心と言われたのでしょう。
そして、このような自身を獲得するということは、オギャーから出発してチン(お葬式)で終る個人的な身でなく、無始無終の久遠の身を獲得することなのですね。またそれは、個人を超えた一切衆生の身を獲得することなのですね。そして、このことは、自分についてだけでなくて、自分以外の他の人についても、そのように見る世界が開かれるということなのです。私に先立って亡くなっていかれた方は、法身となって私を導いてくださると教えてくださるのは、このことを言っているのでしょう。
それから、先ほど述べました「無辺の生死海を尽さん」という法蔵菩薩の願心についてですが、これは、道綽禅師が著わされた『安楽集』の中に、
「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり」
(初版『真宗聖典』401頁)
という文があります。この文に「無辺の生死海を尽さん」という言葉が出ているのです。親鸞聖人は、『教行信証』に沢山の文を引文しておられますが、その『教行信証』を結ぶに当って、最後から二番目にこの『安楽集』の文を引文しておられます。つまり、「終りをもって始めとする」という言葉がありますように、親鸞聖人は、『教行信証』を書き終えられて、そこで腰を下されたのではなくて、そこからまた、「無辺の生死海を尽さん」という終ることのない願いに出発されたのです。そういうことから言えば、親鸞聖人は、762年前に亡くなられたわけですが、法身の親鸞聖人は、今もこの「無辺の生死海を尽さん」という法蔵菩薩の願心の中に生きておられるわけです。
また、この「無辺の生死海を尽さん」という願心について、親鸞聖人がいかに深く感動しておられたかということは、『教行信証』「信巻」に次のような文を引文しておられることからよくわかります。
「『往生要集』に云わく、『入法界品』に言わく、『たとえば人ありて不可壊の薬を得れば、一切の怨敵その便りを得ざるがごとし。菩薩摩訶薩もまたかくのごとし。菩提心不可壊の法薬を得れば、一切の煩悩・諸魔・怨敵、壊ることあたわざるところなり。たとえば人ありて住水宝珠を得てその身に瓔珞とすれば、深き水中に入りて没溺せざるがごとし。菩提心の住水宝珠を得れば、生死海に入りて沈没せず。たとえば金剛は百千劫において水中に処して、爛壊しまた異変なきがごとし。菩提の心もまたかくのごとし。無量劫において生死の中・もろもろの煩悩業に処するに、断滅することあたわず、また損減なし』と。」
(初版『真宗聖典』222頁)
ここで、煩悩や魔や怨敵によっても決して壊されることのない法薬のことや、生死海の中に入っても決して腐って変質してしまったりすることのない宝石の珠のことが述べられています。これは、菩薩摩訶薩の菩提心、すなわち「無辺の生死海を尽さん」という法蔵菩薩の願心を、そういうふうな譬えでもって讃えておられるのですね。「無辺の生死海を尽さん」という法蔵菩薩の願心は、衆生の生死海の真っ只中、地獄の猛火の真っ只中にあっても、決して壊れたり、変質してしまったりすることがないというのです。「無辺の生死海を尽さん」という、底もなく果てもない衆生の迷いの海をどこまでも尋ねていこうというこの法蔵菩薩の願心を、そういうふうな譬えで表わされたところに、回心によって、この願心に生きるようになった親鸞聖人の感動がいかに大きくまた深かったかということが伝わってまいります。
(2025年7月17日記)