■【本の概要】・・・池田晶子氏は、専門用語によらず日常の言葉によって、「人間にとって考えることの大切さ」について語り続けた真に魅力的な哲学者であった。この池田晶子氏が、東京拘置所に拘留中であった陸田(むつだ)真志から手紙を受け取ったのは一九九八年四月三日のことだった。陸田真志は、一九九五年十二月に起こした殺人事件の首謀者として一九九六年九月に逮捕され東京拘留に拘留されていた。陸田は、拘留中に池田晶子氏の著作やソクラテスの著作との劇的な出会いを経て、自己の罪の重大さと向き合い、内省を深めて、池田氏に手紙を書いたのである。この手紙をきっかけに、二人の間で七カ月余りにわたり人生の本質に迫る往復書簡が交わされた。その間交わされた計二十三通の手紙は、『死と生きる―獄中哲学対話―』という書名で一九九九年二月に新潮社から出版された。
その後、池田氏は、腎臓癌により二〇〇七年二月二十七日に四十六歳の若さで亡くなった。また陸田真志は、二〇〇五年十月十七日に死刑が確定し、二〇〇八年六月十七日に死刑が執行された。死刑執行される際の陸田真志の最期の言葉は、「池田晶子さんのところへ行けるのはこの上もない幸せです」だったという。
■以上が、この本の概要である。この本は、生と死の真実について、善と悪について、罪についてについて、真に深く考えさせてくれる本であった。今はその一つ一つの問題にじっくり取り組む時間的余裕がないが、いずれ向き合ってみたいと思っている。ただ、とりあえず二つだけ、今考えさせられていることを書いておきたい。
■【一】・・・陸田真志が永山則夫と根本的に違う点は、自己の罪を社会のせいや生い立ちのせいやその他諸々のせいにしないという点である。その点で実に徹底している。これはドフトエフスキーの思想の根本に流れているものでもあると思う。
このことで思うのだが、親鸞聖人が『歎異抄』第十三章で、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と述べられている言葉について、誤解し易い点があることを思わされた。これを全てを業縁のもよおしのせいと受け止めれば、それはやはり根本的に違うのではないかと思う。宿業の教えは、全てを業縁のもよおしのせいにして責任逃れをすることではないであろう。むしろ逆ではないかと思う。
清沢満之先生は『わが信念』の中で、「如来は一切の責任を引き受けてくださる」と言っておられる。これについても同じような誤解が生じ易い。今出典を確かめることはできないが、曽我量深先生は、「如来が一切の責任を引き受けてくださるということは、とりもなおさず、一切が自己の責任ということだ」という意味のことを確かどこかで述べておられたと思う。如来が一切の責任を引き受けてくださるということは、その如来によって、自己の罪を他に転嫁せず、自己の罪として自覚することのできる信心(機の深信)、すなわち法蔵菩薩の信心が自己の中に生れたということではないかと思う。つまり、清沢先生が「如来が一切の責任を引き受けてくださる」と言われたところのその「如来」とは、自己の内から発起した法蔵菩薩の信心のことだったのである。
親鸞聖人は、『唯信鈔文意』の中で、「過去・今生・未来の一切のつみを善に転じかへなすといふなり。転ずといふは、つみをけしうしなはずして善になす也」(本願寺出版社『浄土真宗聖典全書(二)宗祖篇上』687頁~688頁)と述べておられる。「つみをけしうしなはずして」というところがことに大事だと思う。罪を帳消しにするということでなないのである。また、「善になす」と言われたその「善」とは、法蔵菩薩の願心が自己の内から生まれることを言われたものと私は受け止めている。
ともあれ、陸田真志においては、このような内省的姿勢が徹底していた。獄中において、池田晶子氏の本やソクラテスの著作を深く読むことによって、自分自身の深くに流れていた永遠の魂(すなわち法蔵魂)に目覚め、自己の深い罪を自覚したのであろう。
確認しておかなければならない大事な点は、罪の自覚といっても、それは決して自分の心で自覚することではないということである。自分の心で自己の罪をとらえようとした場合は、最終的には自己を嫌悪し捨てていくことになると思う。自分の心はどうしても倫理の世界を抜け出ることができないからである。自己の深い所に流れている法蔵菩薩のお心をいただくことによって、はじめて自己の罪を自覚できるのである。そのことにおいてはじめて、自己の罪を他に転嫁せず、自己自身の罪として自覚し責任を担って生きて行く主体が生れるのである。それが法蔵魂の目覚めである。そのことを清沢先生は、「如来は一切の責任を引き受けてくださる」と言われたのだと思う。
■【註】・・・以上のようなことを親鸞聖人は、『教行信証』「信巻」善導大師の「至誠心釈」において、「不善の三業は、必ず真実心の中(うち)に捨てたまえるを須(もち)いよ」(真宗大谷派『真宗聖典』初版本215頁)というふうに、極めて独特な読み方をされることによって言おうとされている。「真実心」とは法蔵菩薩のお心ということである。つまり、自分の不善の三業の行為は、決して自分の心で受け止めてはならない。必ず法蔵菩薩のお心をいただいて受け止めていきなさいとおっしゃっておられるのである。
■【二】・・・この本に出ていた池田晶子氏の言葉の中に次のような言葉があった。
「私は、宇宙について考えられない思想は二流だと思っています」
(池田晶子・同書115頁)
これについて憶う。時間には、時計の時間(クロノス)と、時計の時間を超えた永遠(カイロス)の世界とがある。私は、かつて佐野明弘師が、「聖典のどこを開いても、カイロスの世界の言葉でないものはない」と言われた言葉を忘れることができない。親鸞聖人の『教行信証』「総序」には、「億劫にも獲がたし」とか、「遠く宿縁を慶べ」とか、「曠劫を径歴せん」という言葉が次々と重ねられている。「劫」という言葉は、もうそれ自体で時計の時間を超えたカイロスの世界を表している。親鸞聖人は、自己の人生を、宇宙的視野どころか無始已来の久遠の魂としてみる視点で貫かれていることを憶うのである。
今心光寺の掲示板には、金子大栄先生の次のような言葉を掲示している。
「念仏は (われらに) 永遠の過去を与え 永遠の 未来を与える」 (※括弧内の言葉は宮岳付記)
(二〇二五年三月十三日記)