• 悩み多きわれら、親鸞の教えに「自身」を聞かん

(ブログNo21)求道の魂が母の胎内に宿ったのが我らだ

■(先に私が投稿したブログNo18「永遠の魂の流浪者、求道者、旅人」を読まれたある方がメールをくださいました。以下は、それに対する私からの返信です)

■丁寧にお読みくださり率直なご感想を詳しくお書きくださり心からお礼を申しあげます。

「法蔵魂こそが真実の自己自身である」という冒頭の言葉につまづかれたと書いてくださいました。

 憶うのですが、西欧的な思考法を無意識の内に取りこんで生きている我々は、私という存在を単層的にとらえていることが多いように思います。しかし、仏法はわれらを重層的な奥深さを持った存在として呼びかけていると思います。それを教学的に精緻に表したものは唯識教学でしょうが、『無量寿経』は、教学的にではなく、永遠の物語として表わしています。それが法蔵菩薩の求道物語です。

 『無量寿経』の最初に述べられているのは、八相成道(はっそうじょうどう)です。八相成道とは、釈尊の生涯を八つの相で表したもので、(1)受胎(じゅたい)(2)誕生(3)処宮(しょぐう)(4)出家(5)降魔(ごうま)(6)成正覚(じょうしょうがく)(7)転法輪(てんぼうりん)(8)入涅槃(にゅうねはん)です。ところが『無量寿経』の会座に座っている全ての人々は、どの人もみなその八相成道の人生を歩む人なのだと説かれています。これは、『無量寿経』の会座に座っている人は、全て、その人が意識しているか否かに拘わらず、そのように呼びかけられている存在だということを表しているのでしょう。

 これもものすごく奥深い教説ですが、今私が取り上げたいと思っているのは、最初の「受胎」について述べられている言葉です。そこには次のように述べられています。

「兜率天(とそつてん)に処して正法を弘宣し、かの天宮を捨てて、神(じん)を母胎に降(くだ)す。」(真宗大谷派初版本『真宗聖典』2頁)

と。つまり我々は、何もない「無」から精子と卵子が合体して受胎したような無内容なものではないということです。「神(じん)」とは、求道的魂を表している言葉だと思います。我らは、元をたどれば、兜率天に居て正法を説き広めていたような魂なのだと。その魂が、そのことには本当の満足を感じることが出来ずに、より根元的、究極的な魂の満足を求めて、天上から降りてきて母親の胎内に宿ったのだと説かれているのです。

 こういうところからして、人間存在の捉え方が、単なるホモサピエンス的な捉え方とは全く違うということがわかります。ドフトエフスキーも、確かどこかで、「人間は天的な魂の煉獄(れんごく)である」というふうな言葉で述べておられたと思います。つまり、我われは、永遠なるものを求める求道的魂の存在だということです。それは勿論人間だけがそうなのではなく、一切衆生がそういう魂としての存在なのです。そのことを「一切衆生悉有(しつう)仏性」という言葉で述べているのでしょう。それなのに、我われは無意識の内に、理知的、計量的自我をもって、自己の存在を単層的にとらえています。それに対して『無量寿経』は、我われを、永遠なるものを求める求道的魂という深い層を持つ存在として呼びかけてくださっているのです。

 こういうように、我らは永遠なる求道的魂としての存在なのですが、その我らの究極的に求めているものは何か? それが、善導大師が表してくださった「汝、一心に正念にして直ちに来たれ、我よく汝を護らん、すべて水火の難に堕せることを畏れざれ」という阿弥陀仏の呼び声であったのです。これがすなわち、南無阿弥陀仏の名号です。そして、この呼びかけの声を発しておられるのは、阿弥陀なる無量寿の魂です。無量寿とは、決して我らを量るということをしない魂のことです。その阿弥陀なる永遠の魂が、自らを「我」と名乗って、永遠なるものを求めて止まない求道的魂である我らを「汝」と呼びかけ、「我は久遠の過去から久遠の未来にわたって汝と共に在り続ける」と呼んでくださっているのです。この呼び声を聞いた時、我らの魂は、自己の根源的な本拠にやっと帰り得たという根本的な満足を得ることができるのだと思います。

 言いたいことは、我らは単層的な自我存在では決して収まらない、久遠の魂という深い層を本能として先験的にこの身に植え付けられている存在だということです。『無量寿経』は、法蔵菩薩の物語という神話的表現でもって、我らの深い層にそう呼びかけているのです。でもこれは、理知的な整合性をもって説かれたものではありません。ですから、理屈の上でつじつまを合わせようとすると、色々無理が生じてくるのは避けられないと思います。自己の宗教的本能によって感じ取るしかない領域のものではないかと思います。

■ さて、こうして母の胎内に宿った我らは、次に続く「受胎」において次のように述べられています。

「声を挙げて自ら称う。『吾当に世において無上尊となるべし』と。」

                           (同書2頁)

 釈尊の誕生の際の言葉としてよく伝えられているのは「天上天下唯我独尊」です。意味としては同じなのでしょうが、受ける感じとしては「吾当に世において無上尊となるべし」の方がよい表現だなと思います。「無上尊」というのは、我らの存在は、比較などを超えた、宇宙における唯一無二の存在だということがよく表れている表現です。

 また「世において」と述べられているところも、とても大事です。「世」とは、決して量れないものを量り合い、傷つけ合っている世界です。物心つき始める頃から、とりわけ自分自身の存在を量り始め、そのことによって、次第に生まれたことを喜べないようになっていきます。そういう「世において」、「無上尊の魂に目覚めるべし」と自らに願い、声を挙げて生まれて来たのが我らであると述べられているのです。それが「オギャー」という呱呱の声の中味だというのです。何と感動的な表現だろうといつも思います。

■ところで、この頃念仏もうすとき感じるのですが、念仏もうすとは、今まで「私が、私が」と言ってきた自分がもうすのではなく、それよりももっと深い法蔵菩薩の魂である我が念仏もうすのであると。(2025年4月3日記)

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