• 悩み多きわれら、親鸞の教えに「自身」を聞かん

No10.如来がおられるから信じるのか、信じるから如来がおられるのか?

【この文章を書くに至った経緯】
 私は、昭和49年4月大谷大学に入学し、伝道部に入部しました。しかし、入部したその秋、尊敬していた先輩たち3名が、主だった他の部員との方針の違いから伝道部を脱会し、任意グループ「感動舎」を新たに立ち上げました。私と友人3名も、その先輩たちに追随して伝道部を脱会し、「感動舎」の一員となりました。「感動舎」は、大学卒業後も、主として北陸地方出身の先輩方が中心になって、新たなメンバーを加えながら、五十数年を経過した現在も、「風の会」と名称を変えながら石川県や富山県で活動を継続しています。ただ、私を含めて遠距離に住むメンバーは、常時の活動には中々参加できずに今日に至っています。そういう中で、遠距離に住むメンバーも参加し易いようにと、去る2023年5月31日、京都の東本願寺同朋会館を会場にして「風の会の集い」が開催され、私も参加しました。
 以下の文章は、その集いにおいて発表するために、大学に入学して以来の私の人生を振り返って書いたものです。

1.七十三年間の人生を振り返って

 今、七十三年間の人生を振り返って思うことは、大谷大学に入学し、伝道部に入部し、尊敬する先輩方や友人たちに出会い、清沢満之先生の文集を共に輪読することができたことは、私にとって何にも代えがたい経験であったということです。その清沢先生によって教えていただいた最大のものは、「自己とは何ぞ、これ人生の根本問題なり」という問いにでした。

 それまでは、真宗の信仰といえば、大方は阿弥陀仏の救済を天降り的に信じ、生きている間はあまり深いことは考えずに念仏を称えて、この世の論理に従って生き、命終る時に阿弥陀仏の国へ生まれることを期すというものであったと思います。

 実は、私は高校一年生の時からそのような昔ながらの真宗の信仰にのめりこむ時期がずっと続き、それが高校三年生の終り頃根底から瓦解し、ニヒリズム的な無意味感に陥ってしまったのです。しかし、「いったい私はどうして生れて来たのだろうか?」という問いはどうしても消し去ることができず、担任の反対を押し切って大谷大学に入学しました。

 その私にとって、大谷大学に入学し、「自己とは何ぞ、これ人生の根本問題なり」という問いを生涯追求された清沢先生や曽我量深先生の教えにふれ得たことは、今思えば決定的な出来事でした。

 ただ、当然のことながら、大谷大学の六年間だけでは信心を得ることはできず、ニヒリズム的な人生観を払拭できないまま社会人となり、家庭を持ったものの、母親の死や夫婦間の葛藤、子育ての問題等々様々な面で生きることの苦しさを感じつつ、五十歳を迎え、私の人生も結局不本意な思いを抱いたまま終わるのかなと、半ばあきらめに近い思いを抱きつつ日々を過ごしていました。

 そういう時期に、大石法夫という一人の稀有な念仏者に出遇つたのです。やがて私は、この方に自分の人生を賭けてみようという決断をし、職を辞め、妻と共にこの方に道を問う聞法の道へと突き進んだのです。

 しかし、そうして師の教えを懸命に聞き始めたものの、自分自身の立ち位置というものがはっきりしませんでした。一体私は師に何を求めているのか。単に師を憧憬の対象として見ているだけではないのか。そのことがはっきりしないまま、やがて師は亡くなり、師の没後、師の残された書物を同行の友と共に読み続けましたが、やはりその問題は残ったままでした。

 そういう中で、やがて私は、自分が克服しようともがいている迷い、不安、空しさ、孤独、煩悩・・・等々、そういうものこそが、実は自分が見失っているものであり、その深さ、重さ、尊さに改めて出会い直していかなければならないのではないのかと気づかされるようになったのです。また親鸞聖人や師の出遇われた道も、何ともならぬものを抱えている自分自身の宿業の身の深みへと回帰していく道ではなかったのかと思うようになったのです。つまり、問題を抱えた自己を克服?する(逃げる)方向から、そのような自己へ帰る方向へと、方向が逆転したのです。

 そういうところから、清沢先生の「自己とは何ぞ、これ人生の根本問題なり」――この問いの大切さを改めて思い直すようになりました。

2.「如来がおられるから信じるのか、信じるから如来がおられるのか」

 清沢先生は、真宗大学開校の時、学生たちに、「如来がおられるから信じるのか、それとも信じるから如来がおられるのか」という問いを投げかけられたそうです。その場に居られた曽我先生は、その時から七十年経過した九十歳頃の講演の中で、清沢先生が出されたその問いを改めて取り上げられて、自分は七十年前に清沢先生から投げかけられたこの問いを問い続けてきたように思う。それが自分自身の教学の歩みであったと述べておられます。この清沢先生の投げかけられた問いの中に、「自己とは何ぞ、これ人生の根本問題なり」という問いの本質がよくあらわれているように思います。

 すなわち、清沢先生以前の伝統的教学は、「如来がおられるから信じる」の立場であったと思います。この場合の如来は、自己を不問にしたまま、自分を無自覚に立てて、その自分が外なる如来を対象的、観念的、天降り的に信じるというものです。そのような、自分の外にある如来は、東日本大震災の時に「この世には神も仏もいない」という言葉がよく聞かれたように、いざという時には崩れていく如来です。そのような如来は、元々いなかったのです。そのことが、未曾有の災害に遇うことよってはっきりしたのです。今思えば、私が高校三年生の時に崩壊した如来は、この如来であったと思います。

 これに対して、「信じるが故に如来まします」という立場は、そもそもそういう如来などというものは果して存在するのかという、そういう外なる如来の崩壊体験から出発したものです。そのような根本的な問いによって、本当に壊れない確かな信を求めていかれたのが、清沢先生であり、また曽我量深先生であったと思います。

 すなわち、「信じるが故に如来まします」の如来は、対象的、分別的信の崩壊を潜って、理知・分別の決して手の届かない深みから――別な言葉で言えば、この身の底に流れる宗教的本能の地下水脈から――涌き出たところの「信知」そのものです。清沢先生は『わが信念』の中で、「私の信念と如来という二つの事柄は、私にありては全くひとつのことであります」と言っておられます。清沢先生において、如来はわれらの外におられるものではなく、この身の底から涌き出た信知の自己そのものにほかならなかったのです。つまり、信こそが如来なのです。

 実は、親鸞聖人が二十年間の比叡山での修道に行き詰って、法然上人の「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとのおおせをかぶって信ずるほかに別の子細なきなり」と言われた「信ずる」世界は、この信知の世界に外ならなかったと思います。

3.深信自身(信知自身)の自己

 信知という言葉は、善導大師が『往生礼讃』の中で「自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して火宅を出でずと信知す。」(『真宗聖典』222頁)と述べられた言葉に基づいています。また善導大師は、この信知と同じ内容のことを、『観経疏』では、「決定して深く、『自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし』と信ず」(『真宗聖典』215頁)というふうに深信という言葉で述べておられます。いわゆる機の深信と言われているものです。つまり、信知と深信は同じ内容の言葉なのです。では何を深信し信知するのかといえば、「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と深く信ずと述べられているように、現在、過去、未来を通じて救われようのない宿業の自身を深信し信知するのです。さらに親鸞聖人は、『愚禿鈔』の中で、この機の深信のエッセンスを、「決定して自身を深信する」という一語に凝縮され、それを第一深信とされました。また法の深信の言葉を、「決定して乗彼願力を深信する」という一語に凝縮され、それを第二深信とされました(聖典440頁㊟38→聖典1048頁㊟38参照)。よく読めば、この第一深信と第二深信の言葉は、「決定して彼の願力に乗じているところの自身を深信する」ということになるので、結局「自身を深信する」という言葉に収まります。従って、二種深信といっても、第一深信であるところの深信自身に収まるのです。親鸞聖人は、この深信について、「今この深信は他力至極の金剛信、一乗無上の真実信海なり」(聖典439頁)と述べておられます。ですから、第一深信の第一は、単なる順番を表す言葉ではなく、根本、要、原点、出発点、帰着点という意味がこめられているに違いありません。

 この深信自身(信知自身)の魂こそが、清沢先生が追求されたところの自己であり、曽我先生が力説されたところの法蔵魂であり、また父母が生れる以前からあったところの欲生心としての自己自身であり、さらには善導大師がこの身の出生の内因とされたところの「自の業識」ではないかと思います。

 われらはこの深信自身(信知自身)の自己に出遇いたいが為にこそ、父母を外縁として人間に生まれたのです。すなわち、この深信自身(信知自身)の自己は、父母が生れる前からあった久遠の自己であります。それどころか、宇宙開闢以前の久遠の昔からあった永遠の自己です。禅の久松真一師は「宇宙が滅んでも覚は滅びない」と言われたそうですが、それになぞらえれば、正にこの自己は、宇宙が滅んでも滅びないのです。親鸞聖人は、そのような深信自身(信知自身)の自己に出遇い得た感動を、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と言われたのだと思います。すなわち、親鸞聖人が言われている行信とは、呼び覚まされた自己、深信自身(信知自身)の自己、すなわち法蔵魂のことだったのです。

 この深信自身(信知自身)の自己、すなわち法蔵魂こそが、われらの故郷であり、私の人生とは、この故郷に帰る遍歴の旅だったのです。

 親鸞聖人は、「『欲生』と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり」(聖典232頁)と言われていますが、如来は外からわれらを招喚しているのではなかったのです。この如来は、われらの根源であるところの、われらが久遠劫来忘却してきた自己自身と不二(別々ではない。離れない)となって、内から「帰って来い」とわれらを招喚していたのです。その自己自身とは、実は、深信自身の「深信」であり、信知自身の「信知」なのでした。別な言葉で言えば法蔵魂なのでした。

 このわが内なる深信自身(信知自身)の自己、すなわち法蔵魂に呼び戻されて歩み続ける永遠の道が、われらの前途に開かれるところの永遠なる願生浄土の道なのです。

4.「如来の無限の能力」

 清沢先生は絶筆『わが信念』の中で、「如来の無限の能力」ということを言われています。その如来は「無能の私をして私たらしむる能力の根本本体」であり、「私の一切の行為について責任を負うて下さる」。「私はこの如来を信ぜずしては、生きてもおれず、死んでいくことも出来ぬ」。「私は、唯この如来を信ずるのみにて、常に平安に住する事ができる」と、死の直前の八方塞がりの状況の中で書いておられます。

 曽我先生は、「如来の大悲本願の力に乗託するならば、その如来の御力がそのまま我が力というものとしてわたくしどもに回向される。如来の力はただ如来の力だと、いつまでも、あれは如来の力だと、こういうのでなくして、如来の力がそのまま我が力になる。如来の力全部が我が力となる。こういうことを、機の深信と言い、それを自利の信心とこういうように仰せられたのである。」(『曽我量深選集』第12巻327頁)と述べられています。また「法の力が全部わが力というものになったと。(中略)機の深信という時になれば、仏様の御力が全部私に頂いて、仏様の力が全部私の力というものになってきた。」(同書330頁)と述べておられます。

 ここで曽我先生がはっきり述べておられますように、如来に乗託すれば、「如来の無限の能力」の全部がそのまま我が力となる。それが機の深信、すなわち深信自身(信知自身)の自己に外ならないのです。その力が法蔵魂なのです。

5.われらは仏を生み出す親

 また、われらは仏の子でなく、実に、仏の本願もそこから生まれたところの仏の親だと、そういうことまで曽我先生は述べておられます。どこで述べておられるかを今確定できませんが、安田理深先生も同じことを述べておられるのでそれを引用します。

 「如来という概念が神とちがうのは、如来にはすべて因位ということがある。因位の願というものがある。神様に願というものはない。だから天降りです。神は外から人間に君臨したものだ。仏というものは人間から生まれたものだ。仏母、仏の母、母胎だ。信心というものは仏の子の自覚ではなく、仏の親、仏を生み出す親だ。信心が仏を生み出す、そういう自覚です」(『因位の願心』109頁)

 このような言葉は、いささか奇異に聞こえるかも知れませんが、対象的な如来に対する信の崩壊体験を潜って、信知の如来に甦ったという経験に立てば、信こそ如来を生み出す親だという曽我先生や安田先生の言葉は、正しくその通りなのです。

 このように、清沢先生の「自己とは何ぞ、これ人生の根本問題なり」という問いは、清沢先生と曽我先生の生涯をかけた求道によって、われらを深信自身(信知自身)の自己・信心へと導いてくださいます。そして、この信心こそが、われらにとって最も大事なものであるということを教えてくださるのです。

親鸞聖人は「しかるに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽(まこと)に獲ることかたし」(『真宗聖典』211頁)と述べておられますすなわち、仏道の目指すべき究極は無上妙果の(さと)りだとされてきた中にあって、親鸞聖人は、無上妙果は問題ではない、信心獲得こそ、われら一人一人に託されている最も大事な使命だと述べておられるのです。

 『無量寿経』には、釈尊は誕生の時、「吾当に世において無上尊となるべし」と叫ばれたと書かれています(『真宗聖典』2頁)。清沢先生と曽我先生が生涯をかけて求められた深信自身(信知自身)の自己・信心の道は、正にわれら一人一人の存在そのものの無上尊なることを呼びかけてくださるものであったということを、今あらためて思っています。大谷大学に入学して、そのようなわれら自身の無上尊なることを尋ねる道に出遇わせていただいたことは、何にも代えがたい幸せでありました。

(2023年5月28日記す)

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