「光あり」 (大石法夫・作詞)
(この歌は法蔵菩薩の歌です。「光」とは、闇のわが身を照らし闇のわが身に同体したまう法蔵菩薩のことです。この歌の中に大石法夫師の八十七年の一生涯が収まっていることを感じます。私の一生涯もまたこのような一生涯でありたいと願っています)
一、十方衆生と 呼びたもう 法蔵菩薩は 光といのち
願いを こめて 汝が ために 南無阿弥陀仏と 生れたもう
(法蔵菩薩は、われら一人一人に向って「十方衆生」と呼びかけてくださいます。「私はいつでもどんな時でもあなたと離れずあなたと身を一つにして歩んでいくよ。そしてあなたが、人として生まれたことを心の底から喜べるようになることを願って、南無阿弥陀仏という念仏の声となってあなたの中に生まれるよ」と呼びかけてくださいます。その呼びかけによって、始めて、われらは十方衆生の身を生きていることに目覚め、現在・過去・未来の十方衆生の生死海こそ、われらの帰っていくべき故郷であったことに目覚めるのです)
二、 暗い荒野に 日は昇り 野にも 山にも 故郷の息吹き
生まれて よかった 人の世に 生死の きづなは 断ち切られ
(落ちた所に聞こえてきた法蔵菩薩の呼び声。その声が聞こえてきたことによって、始めて、暗かった荒野に日が昇り、周りの山河をふるさととして拝み、人間としてこの世に生まれたことを、心の底から喜べるようになったのです。「生死のきづなは断ち切られ」とは、生死の身から逃げよう逃げようとしていた心が翻されて、法蔵菩薩のお心によって、生死の身をいただいていこうという心が生まれたことをいいます)
三、 歩み続けた この道一つ 心の 闇路を 幾十年
師仏の 教え なかりせば 何で 往けよう 光明土
(大石先生は、師の導きによって法蔵菩薩の呼び声に出遇うまでに、実に三十八年間の闇路を辿られました。その歩みが長くつらかっただけに、法蔵菩薩の呼び声に出遇うことのできた喜びもまたひとしお深いのです。「師の導きがなかったら、とうてい出遇うことができなかった声であった」と、師の御恩をあらためてかみしめておられます。「光明土」とは、法蔵魂に生きる世界のことです)
四、 共に往こうよ 彼の浄土 往くも 還るも 仏のご廻向
昨日も 今日も 願いに 生きる 人の 足下に 光あり
(法蔵菩薩の呼び声に出遇って、始めて「共に」という世界が開かれてきたのです。「共に」という世界は、私からは決して開かれることはありません。「われらは、共に宿業を抱えた身として、法蔵菩薩に呼ばれている身である」というところに開かれるのです。「彼の浄土」とは、法蔵菩薩の世界ということです。「仏のご廻向」とは、法蔵菩薩が私の主体となって歩んで下さることです。「往くも還るも」とは、法蔵魂の国への往相(生まれること)と還相(その魂に呼び覚まされつつ生死の現実を生きることをいいます)。「足下に光あり」とは、足下は宿業の真只中ですが、そこにこそ法蔵菩薩は待っておってくださるということです)
五、 頂いたいのちだ 時がくる 老いて 死するも 仏の御手に
大きな 願いに 許されて 生きる 一日に 光あり
(いのちは自分のものではないので、時がくれば、いつか老いて死んでいかなければなりません。しかし、それも法蔵菩薩の御手(時間世界)の中でのことです。われらの一生涯は、法蔵魂に呼ばれ、法蔵魂に帰っていく一生涯なのです。そのようにして生きる今日一日に光を感じずにはおれません)
なお、元音楽教師をしておられた渡辺太郎さんが、大石先生が作詞された「光あり」の曲を自主的に作曲され、アコーディオンで演奏しながら歌われました。
また、渡辺さんが「光あり」の歌詞について作曲されたいきさつについては、ホームページの「大石法夫作詞『光あり』の歌について」(その1)に書いています。
➡「光あり」の歌と演奏ユーチューブ動画