法蔵菩薩の歌「光あり」について
「光あり」が作詞されたいきさつ
大石法夫先生は、平成十年七月一日に「光あり」という歌を作られました。この歌を作られたいきさつについて、先生は、同行さん方に宛てて書かれた書信第六十五信の中で、次のように書いておられます。少し長くなりますが、その一部を書かせていただきます。
道路の掃除に行きました。私の家は寺ではありませんが、お参りくださる方の参道と思って掃除をします。掃除の範囲は周辺に広がってゆきます。六月の三十日、いつものように掃除を終えて、満足感に浸りながら、日暮れて家路につきました。眼下の家々には灯がついて、赤や青のネオンが夕闇に浮かんでいます。
ふと「予科練」の歌(正式には「若鷲の歌」)を口ずさみました。戦時中、光基地で隊員の出撃前夜、壮行会で歌った歌です。当時の戦友の顔、戦死、また殉職した方々のこと、訓練に開け暮れた光基地、そして海などを思い出しました。私は光基地にいる時、生まれて初めて、自分の意志でお寺に行きました。それが、戦後の私の生き方を決めました。
あのころは、敵艦にぶつかることを目的に、毎日を過ごしていました。われも死ぬが、それ以上の人を殺すために訓練を受けていました。今は、同じこの手、この足、この心を「人が助かる」ことに使ってもらっているのです。(中略)
そういう一連のことが、心の中にひらめきとなって浮かんできました。よし、これまでの三冊の本にちなんで、歌詞を作ろう。ふしは予科練の歌のふしで。その翌朝、目覚めてすぐ机について、書いたのが次の歌詞です。
(歌詞は後出)
法座にお参りになった方々には、コピーして手渡し、一緒に歌いました。遠方の方には二十人分くらい郵送しました。歌詞を作ったいきさつを書いた一文を添えたので、その一部を抜粋しておきます。
「…口をついて出たのが『若い血しおの予科練の…』でした。出撃の前夜、ともにこの歌を歌って別れた搭乗員の姿が心にうかびます。明日はわが身。悪夢ではあっても忘れられるものではありません。私は生かされて、このたび三冊の著書を世におくることができました。世の人に、本が読めなくても、仕事をしながらでも、歌ってもらえる歌詞を作ろう。歌いながらでも仏様のご本願が伝わるようにしたい。予科練の歌のふしに託して、歌詞を作ろう。それが戦死者に対して、生き残った方々に対してのご恩報謝だ。ふとそう思って、その夜は床につきました。…私としては、やむにやまれぬ気持ちでした。かつて若き兵士が死に向かって一歩一歩あゆんでいきました。仏様の願いに生かされる者は、同じ歩調が浄土への一歩一歩になり、同じエレルギーが人を殺すためではなく、人の救われることを願う菩薩行となるのです。題を『光あり』としました。書信の付録としてお届けします」
兵士を鼓舞した歌に、新たな命を吹き込むことができればこれこそ本望です。 (『許されて生きる』五十頁~五十三頁
大石先生がどのような思いを込めてこの歌を作られたかということが、ここに余すところなく書かれています。
私が大石先生と出遇わせていただき、お話しを聞かせていただくようになったのは、平成十二年十二月十日、福岡県大牟田市の村上道場においてです。それ以来、私も皆さんと一緒に、ご法座の度にこの歌を歌うようになりました。私は、この歌に出遇って深く感動しました。そのことを、かつて「心光寺定例聞法会のご案内」の中に書かせていただいたことがあります。長い文章ですが、私が、この歌に出遇ってどのような感動を受けたかということがよく表れていると思うので、その部分を次に書かせていただきます。
私が大石先生によって開かれた世界を語ろうとする場合、先生のつくられた「光あり」という歌がまず念頭に浮かびます。この歌に大石先生の歩みのすべてが込められていると言ってもよいように思います。最初にテープでこの歌を聞いたとき、私はほんとうに深く感動しました。そこで、この歌によって教えられたことを、一節ずつ、あらためて私自身に確認してみたいと思います。
「一、十方衆生と 呼びたもう 法蔵菩薩は 光といのち
願いをこめて 汝がために 南無阿弥陀仏と 生れたもう」
まず冒頭の「十方衆生と呼びたもう」のお言葉。このお言葉によって、私は如来から深い慈愛をこめて呼び続けられている存在であることを、今さらのように気づかされました。「呼ぶ」というところに、はるか昔から無明の闇に沈んで迷い続ける私に対する、如来の大悲心の深さが現われています。それは私の存在の根源からの、深い呼び返しの声でもあります。そしてその呼び返しの声が、法蔵菩薩のご修行の物語となり、南無阿弥陀仏と生まれてくださったのだと教えられます。何よりも「呼ばれる」というところに、最も感銘を呼び起こされるものを感じます。
次に、順序が入れ替わりますが、歌の三番。
「三、歩み続けた この道一つ 心の闇路を 幾十歳
師仏の教え なかりせば 何で往けよう 光明土」
ここに一心帰命に至るまでの大石先生の、長く苦しかった歩みが歌われています。それは二十六歳で藤解先生の門に帰してから、六十四歳で光に出遭うまで、実に三十八年間に及ぶ長い苦難の歩みです。それは大石先生の歩みでありつつ、同時に南無阿弥陀仏の苦難の歩みでもあります。大石先生のご苦労は、そのまま南無阿弥陀仏のご苦労に他ならないのです。さらに言えば、何よりもそれは私のためのご苦労に他なりません。
そして歌の二番。
「二、暗い荒野に 日は昇り 野にも山にも 故郷の息吹
生まれてよかった 人の世に 生死のきずなは 断ち切られ」
ここで、長い苦難の歩みを経てようやくたどり得た一心帰命の内景が歌われています。それは殺伐とした暗い荒野に、今ようやく日が昇り始めたというすがすがしい生命の夜明けのときです。今までの迷いの命に死んで、南無阿弥陀仏(法蔵菩薩)の新しい命が産声を上げるときです。その時を待って、暗い荒野が、懐かしいふるさとのように命の通う世界となり、無始の昔から流転を重ねてきた生死のきずなが断ち切られて、人間に生まれてきたことを、深い喜びをもっていただけるようになるのです。
そして歌の四番。
「ともに往こうよ かの浄土
昨日も今日も 願いに生きる 人の足下に 光あり」
ここでは、一心帰命の命をいただいたことによって、どのような歩みが始まるかが歌われています。それは法蔵菩薩の願いをわが願いとして歩む道です。しかしそれは自分が頑張って歩む道ではありません。そのような頑張る自分が死ぬ、破れるのが一心帰命です。そしてそのような自分にかわって、南無阿弥陀仏(法蔵菩薩)の命が自分の中で活動を始めるのです。
大石先生のご著作の中に、次のような藤解先生のお言葉を紹介してくださっているところがあります。
「昭和五十年四月八日、本堂の黒板にお師匠様が書かれたお言葉です。『これは、わしの遺言だと思うて、書き写してください』と申されました。
仏ノ本願力
我、如来ヲ信ズレバ、直チニ如来、我ノ中ニ顕現シ給ウテ、我ヲ救イ給
ウ大活動ヲ開始シ給ウナリ。称名、称名、称名。」
(『どうなろうとこの道一つ』百五十頁)
そして大石先生ご自身も、次のように書いてくださっています。
「それぞれの人がご本願に直接に帰命したら、ご本願が御自ら信ずる人の上に現われて、その人を浄土に向かって往生せしめてくださるのです。」
(『許されて生きる』百三十二頁)
あるいはご自宅でのご法話の中でも、次のようにお話しくださっています。
「念仏は私のために智慧と徳を成就して、私の中に現われて、私のために歩んでくださる。私はその慈悲に遇って、生かしてもらっています。」
(平成十四年九月二十二日、大石先生ご自宅法座にて)
つまり一心帰命の信に立つとき、今までの自分に死んで、南無阿弥陀仏(法蔵菩薩)という如来が私の中に現われて、私にかわって自他を救い給う活動を始められるのです。称名というのは、その実践行の歩みのことです。ひたすらナムアミダブツと称名念仏しながら、日常の具体的な一つ一つの歩みをさせてもらうのです。それは私が行うのではなく、私にかわって南無阿弥陀仏(法蔵菩薩)が歩んでくださる歩みです。藤解先生は、その力を本願力とおしゃっています。その本願力に乗せられて、称名という報謝の行をさせていただくのです。
福岡県大牟田市の村上道場のお同行様に杉野玲子さんという方がおられます。村上道場の九月法座の座談会テープを聞かせていただいておりましたところ、自己紹介の中で杉野さんが次のように話しておられました。
「私の生活の中で、お念仏さまがはたらいてくださる。私は変わらないけれども、料理やお掃除をする中で、大石先生を通して、お念仏さまが少しずつ少しずつはたらいてくださる。前は、助かろ助かろうと思ってきて、それが崩されてきました。今は生活の中で充実させていただく。私が充実するというのではなくて、大石先生のお育てを通して、お念仏さまがはたらいてくだいます。」
私はこのお言葉に感銘を受けました。大石先生のお育てを受ける中で、今まで自分の中で蓄積してきたものでは生きられないことが次第にはっきりし、杉野さんの中で南無阿弥陀仏(法蔵菩薩)の命が確かに活動を始めたことがうかがわれます。こういうふうにして南無阿弥陀仏(法蔵菩薩)の命は、人から人へと伝わっていくのかと思います。
念仏は、自分の足では歩けない私のために、私の手となり足となってくださるのです。
私の母は五十五歳で末期癌の診断を受けました。余命二箇月との診断でした。私たちは何とかして治そうと思い、知り合いだった元大阪大学医学部教授のM先生が指導しておられた自然療法にすべての望みを託しました。大阪市内にアパートを借りました。毎日一万歩歩くことが療法の重要な柱の一つでした。手術後の母にとっては、楽なノルマではなかったはずです。ある日母は歩くとき、念仏を称えながら歩き始めたそうです。付き添いの人には、それが母の弱音の言葉としか聞こえなかったようです。それで、「念仏なら死ぬとき称えればよいでしょう」と言われたそうです。すると、母は、「念仏がなかったら一歩も歩けない」と、そう言ったということを、母が亡くなった後、聞きました。まさしくそうであっただろうと思います。
私はこの話を聞いたとき、こみあげるものを抑えることができませんでした。私もいっしょだと思いました。私も一寸先は闇の中を生きています。自分の足で歩けているという思いは、大きな錯覚に過ぎません。何が起こるかわからない中を生きているのが私です。私もまた、念仏なくしては一歩も歩けないのです。私は亡き母のこの言葉を思い起こすとき、今も現に生きている母に会うような気がします。
最後に、歌の五番です。
「五、頂いたいのちだ 時がくる 老いて死するも 仏のみ手に
大きな願いに 許されて 生きる一日に 光あり」
南無阿弥陀仏(法蔵菩薩)の命をいただいて生きる道は、老いていくこと、死んでいくことをも、命の内容としていただいていく道です。『無量寿経』に、「道に昇るに窮極することなし」という言葉があります。どこまで歩んでも、これが終着点ということがない。死で終ることがない。仏の願に生きる道は、そういう限りのない道に歩み出すことです。
今年八月に心光寺でおこなわれた一泊研修会で、講師の宗正元先生が、師の曽我量深先生や安田理深先生のことをこういうふうにおっしゃっておられました。
「こういう先生方の生涯をみると、ほんとうに死ぬことを忘れて、最期の最期まで願に生き尽くされた。完全燃焼。気がついたら死んでおられたと。そんな感じさえする。」
と。私はこのお言葉を聞いたとき、休む間もなく前へ前へと本願の道に進んでいかれる大石先生の生活を思いました。すると翌日の朝食時、出席されていた大津留ヤス子さんというご同行さんが、「その話を聞いたとき、大石先生のようだなと思った。」と、そう私に言われました。大津留さんも同じことを感じられたのだなと思いました。
一心帰命の命をいただいて願に生きる生活を始めた人は、まさに「道に昇るに窮極することなし」の一道を生き尽くすのです。肉体の死ということは、もはや本質的な問題ではありません。はるか昔から迷いを重ねてきた我執の死こそが本質的な問題です。一心帰命の信をいただくということは、この迷いの我に死んで、仏の本願という無量寿の命に蘇ることです。そして縁ある限り本願の命を生き尽し、縁が尽きれば本願の命そのものに帰っていく。本願の命そのものとなって、生死の迷いに苦悩する衆生のある限りはたらき続けるのです。
大石先生はこういうふうにおっしゃっています。
「本願は百年、二百年ではない。本願に乗せられたら、無量寿という命が私の中に現われて、如来さんが歩みを始めるから、歳を超えるんですよ。死んでいくことまでが救いになる。おかしいでしょう。」
(平成十三年十二月十六日、心光寺定例聞法会にて)
あるいはまた、こうおっしゃいました。
「私には、明日という日はない。(中略)いつもただ今誕生。ただ今出発。いつも今日が初めて。今日が最期。そういう気持ちです。」 (同)
夜の法座が終わり、一晩ぐっすりお休みになった翌朝の先生のお顔は、まさに新しい命のすがすがしさに輝いています。ほんとうに一日一日、新鮮で透明な命に生きておられることが感じられます。
以上、大石先生の「光あり」に出会って、今私が教えられつつあることを書きました。私はこの歌に、大石先生の今までの歩みのすべてが収まっていることを感じます。さらにこの歌は、単に大石法夫個人の生涯を歌ったものではないとも思っています。私の生涯もまた、この歌の中に収められていくということを感じます。そういう普遍性をこの歌は持っています。道に迷い道を求める心の帰っていく世界が指し示されています」
(平成十一年十一月六日記)
以上です。
今から十九年前に書いた文章です。このような感動をこの歌に感じていましたので、私は、大石先生のご存命中は勿論ですが、先生が平成二十年五月十三日にお亡くなりになられた後も、自坊の法座では勿論のこと、自坊以外でも、法話の依頼を受けて出講させていただいた際は、いつも皆さんと一緒にこの歌を歌うようにしていました。
その際、伴奏が軍歌であるということについての危惧は、当初から持っていました。それで、歌の前には、必ず大石先生がこの歌に託された思いをお話しして、むしろこの歌は、戦争に参加した当事者が、戦争の痛みをくぐって、仏法に出遇い、平和への悲願をこめて作った歌であるということを前置きした上で、歌うようにしていました。そうすることによって、この歌の伴奏が軍歌であるという問題点は、充分に超えられていると自分では思っていたのです。
ところが、その後、私が出向いた先でこの歌を歌っていると、途中で制止されることが時々ありました。また、私が法話の際に軍歌の伴奏で歌っているということを口伝えで知られるようになった方々が、事前にお電話をくださり、大石先生のお気持ちは理解できるが、やはり軍歌で歌うことに痛みを感じる方々もおられるので、この歌を歌うことは控えて下さいと、あらかじめ釘を刺されることもありました。
このようなことが度々重なるようになりまして、私は次第にこの歌を歌うことが出来なくなりました。そして、やがて自坊でもこの歌を歌うことを思いとどまるようになりました。以後昨年夏頃まで、「光あり」を歌うことは全くないという期間が長く続いていたのです。
しかし、私はこのことが残念でなりませんでした。特に、最近、法蔵菩薩に呼び覚まされるということが、親鸞聖人の教えの要であるということを増々感じるようになるにつけ、「光あり」は、まさに大石先生が八十七年のご生涯を通して、法蔵菩薩の呼び声に出遇われ、法蔵魂に生きて行かれた内容が凝縮された歌であることを改めて感じて、この歌を歌えないことを残念に思う気持ちが増々強くなりました。
それで、私は、数年前から、この歌をどこでも歌えるような形にできないものだろうか。そのために、別の曲に変えて歌えないものだろうかと考えるようになりました。そして、図書館に行って色々な歌集を見たりしながら、ふさわしい曲を探しておりました。ある時は仏教讃歌の「四弘誓願」の曲で歌ってみたり、又ある時は「荒城の月」の曲で歌ってみたり、またしばらくの間は「月の砂漠」の曲に合せて歌っていました。ところが、その後ある方から「月の砂漠」の曲に合せて歌っていると寂しくなるという声が聞かれるようになりました。それでこの曲で歌うこともできなくなり、その後は「光あり」の歌を歌わずに大石先生の書信輪読会を続けていました。
ある時、そのような事情を輪読会の席で話したところ、その席に出席しておられた方で、元小中学校で音楽の教師をしておられた渡辺太郎さんが、しばらくして心光寺に来られて次のように言われました。「ご住職の話を聞いて私が『光あり』の曲を作曲してみました。よろしければ、次回私がアコーディオンを持参してその曲を演奏しますから、それに合わせて歌ってみてください」と。
そして、次の輪読会の時、渡辺太郎さんがアコーディオンを持って来られて、作曲された曲を演奏しながら「光あり」を歌ってくださいました。静かな曲で、大石法夫先生が作詞された詩にふさわしいよう思われました。それで、それ以来大石先生の輪読会は、今のところはこの曲で「光あり」を歌って始めるようにしています。渡辺さんが出席されない時は、演奏を録音したCDに合せて歌っています。
その曲の楽譜は次の通りです。
また渡辺太郎さんのアコーディオンによる演奏と歌のユーチューブ動画はこれです。
