■この写真は、清沢満之師の孫で、後に暁烏敏師の孫暁烏宣子さんと結婚して暁烏敏師のご寺坊明達寺に入寺された暁烏哲夫師の著書『信流記』の130頁~131頁の写真です。写真では少し読みにくいかも知れませんので、次にこの文章を書き写してみます。
「ともかく私は自分で生きている限り、生命の奥底っていうか、生きておることの中心っていうものを、探れるだけ探ってみようというものに、私の気持ちはなってきたんですね。だからそれまでは、まだ多少とも宗教的な行き方っていうものがあったわけですから、衣着て托鉢するってなこともしとったわけですけど、そういう外側での宗教的な行き方ってなものも、何か甘っちょろいようなものに思えてくる。
大体、宗教ってな言葉で人間がいうておることだって甘っちょろいものに見えてくる。信心だとか何だとかいっとったとて、どの程度のことで人間どんなことを考えておるか、宗教とか哲学とか芸術とかいろんなこと人間がいっとるけど、そういうものも人間いい加減なところで線を引いて、分けて、いい加減なとこで区別して考えている。しかし人間の根本ってなものは、これは宗教だ、これは哲学だ、これは芸術だってなことを考えん、もっと根本のところの、解決がつくのかつかんのか分からんけど、もっと深い問題が中心にあるわけです。そして、そういうものだけが自分のこう、問題だっていうものに変って来るわけです。
だからその頃から、本当に自分は自分の中心っていうものを追求してゆくというものに、自分の生きておることのすべてが変って来ておるわけです。だからもう、暁烏宗団というようなことは問題にならんと同じように、今度は或る意味じゃ一切の宗教ってなものも、宗教ってな形で存在するっていうより、それを宗教ってなもので整理しておる、その宗教意識なんてものは、私には問題にならんのであって、もっと人間の奥底で、それが宗教と呼ばれるか、仏法と呼ばれるか、信とよばれるか、何と呼ばれるかしらんけど、人間をして人間たらしめておる、人間をして悩ましたり怒らしめたりしておる、時には人間をして人間でなくするようなことも起す、その一番元の世界ってなものは一体何なのか。それを究めてゆくっていうことだけが自分の生甲斐だっていうふうなものに、自分の生命のかけ方っていうものが変ってくるわけなんですね。
そういう意味で、ずいぶん私はそういうものを考えながら、そういうものに答えてくれるような書物っていうようなものを読み漁るっていうことも、まあしたわけです。そして暁烏宗団とは別れる。それから『広大会』にも、すべてのことを止める。まあそこから出発し、始めようと思った・・・」
■以上は、清沢満之師の孫で、後に暁烏敏師の孫暁烏宣子さんと結婚して暁烏敏師のご寺坊明達寺に入寺された暁烏哲夫師の著書『信流記』の130頁~131頁の文章をそのまま書き写したものです。
この文章の中に次のような言葉があります。「一切の宗教ってなものも、宗教ってな形で存在するっていうより、それを宗教ってなもので整理しておる、その宗教意識なんてものは、私には問題にならんのであって、もっと人間の奥底で、それが宗教と呼ばれるか、仏法と呼ばれるか、信と呼ばれるか、何と呼ばれるかしらんけど、人間をして人間たらしめておる(中略)その一番元の世界は一体何なのか。それを究めてゆくっていうことだけが自分の生甲斐だっていうふうなものに、自分の生命のかけ方っていうのが変ってくる」と。また、「生命の奥底」「人間の根本」「自分の中心」「それを探れるだけ探ってみたい」と。こういう言葉が私の目を引きました。
■暁烏哲夫師は、傷心を抱いて戦争から復員した後、暁烏敏師に師事され大きな感化を受けました。しかし、その後、暁烏敏師を取り巻く暁烏軍団の熱狂に違和感を抱き、やがてそこを離れて一人になられて、前述のような方向に探求の道を転じられたのです。私は、暁烏哲夫師のこのような探求の姿勢に共感を覚えました。
清沢満之師の絶筆『わが信念』の一節を思い出します。清沢師の信念(信心)とは、自分が如来を信ずる信心ではなく、如来が本体となって自分に起こってきたところの信念(信心)だというふうに清沢師は述べておられます。親鸞聖人が、「信楽を獲得することは、如来選択の願心自(よ)り発起す」(『教行信証』「信巻」)と書いておられる言葉が思い起こされます。これは、信心とは、法蔵菩薩の願心が私の奥底から起こったところの信心なのだと述べておられるのです。
清沢師は、この信念(信心)が心に現れ来る時は、その信念(信心)が心一杯となって、いかなる妄念や煩悶苦悩が起こっても、その立場を失って、その苦しみから解放されると述べておられます。また、この信念(信心)は、私の一切の行為(身口意の三業一切)について責任を負うてくださると述べておられます。
■私は、今まで表層の自我意識しか知らず、それを自己とばかり思って生きてきました。しかし、教えられてみれば、我々の身の底には、久遠の昔から法蔵魂という願心が平等に流れていたのでした。すなわち、私は、自我意識という表層の自己と、法蔵魂という、表層の自我の手に届かぬ深い層に流れている深層の自己と、この深さの全く違う二つの層を持った二重構造の存在であったのです。この自己の内における二つの層は、深さは全く違うけれども、たとえて言えば鉄道の二本のレールのようなものです。二本のレールなので、どこまで行っても決して交わることはありません。にもかかわらず、そのことがはっきりしていない為に、聴聞の努力を重ねていけば、いつの日かきっと二本のレールを交わらせて一本のレールにすることが出来ると信じて悪戦苦闘してきたのでした。すなわち、表層の自我のレールを、何とかして「一心一向に仏たすけたまえとたのみもうすこころ」に出来ると思って悪戦苦闘してきたのでした。それは、元々次元の異なる二本のレールなので、始めから無理な話でした。
でも、教えられてみれば、この「一心一向に仏たすけたまえとたのみもうすこころ」は、努力しなくても、すでにこの身に、久遠の昔から法蔵魂の誓願として平等に流れているのでした。
■経(『無量寿経』の異訳の経典)には、蜎飛蠕動(けんぴねんどう)の類(たぐい)まで、南無阿弥陀仏という法蔵菩薩の呼び声が届いたとき喜ばないものはないと説かれています。このように、法蔵魂は、蜎飛蠕動の類にまで流れているのですから、この世界においては、宗教の区別や人間の属性における区別などは一切問題になりません。生命をもったどんな生き物も、平等に南無阿弥陀仏の呼び声の中に摂取不捨されていくのです。(この場合、南無阿弥陀仏は言説化される以前の根源の呼び声なので、南無阿弥陀仏の言説にのみ限定されるものではなく、イエスの福音にもなり得るし、マルティン・ブーバーの「我と汝」の呼び声にもなり得るし、また他の呼び声にもなり得るのです。)
■親鸞聖人は、「摂取不捨」の左訓に、「摂は、おさめとる、もののにぐるをおわえとるなり」(・・外から)。「取は、むかえとる、ひとたびとりてながくすてぬなり」(・・内から)と懇切丁寧な註を付けてくださっています。ですから、私どもは、たとえどんなに糸の切れた凧のように虚空を漂流することがあっても、基本的には大丈夫なのです。なぜなら、凧の底には、どこまでもこの身と運命を一つにすると誓われた法蔵魂が付きまとって離れることはないのですから。
■この法蔵魂こそが真実の自己です。一度そのことに目覚めれば、表層の自我のレールは、無くならずに続きますが、表層のレールを深層の法蔵菩薩のレールに一本化しようとする徒労からは解放されます。この解放感は非常に大きいものがあります。そのことを、清沢満之師は、信念(信心)が心に現れ来る時は、その信念(信心)が心一杯となって、いかなる妄念や煩悶苦悩が起こっても、その立場を失って、その苦しみから解放される、と言っておられるのでしょう。(煩悶苦悩が無くなるとは言っておられないのです)
(二〇二四年七月十六日記)