• 悩み多きわれら、親鸞の教えに「自身」を聞かん

ブログNO.13「そんでええがや」の声が聞こえるとき

■清沢満之師は、絶筆『わが信念』の中で、「如来は私の一切の行為について責任を負うて下さる」と言っておられます。そして、その如来は、外におられるのではなく、「私の信念の本体である」と言っておられます。つまり如来は、われらの信心の主体そのものとなって、われら万人の底に平等に、深層として実在(存在と実在は違います)しておられるのです。この深層としての信心こそ、われらの宿業と一つになって実在している法蔵菩薩なのです。そして、この法蔵菩薩こそ、私の本当の主体だったのです。

 私は、今まで表層の自我を自分の主体だと思ってきましたが、本当は、われらの深層に実在している法蔵菩薩こそ、私の真実の主体であったのです。一たびそのことにはっきりと頷いたら、表層の自我は、宿業としては消えずに厳然として働き続けるけれども、実質的な根拠は失います。(つまり今までの表層の自我の一重構造だけであった自己が、表層の自我と深層の法蔵菩薩―もう一人の自分―という二重構造となるようです)。このことを清沢師は、「妄念妄想の立場を失い」「いかなる刺激や事情が侵して来ても、煩悶苦悩を惹起することを得ない」と言っておられるのでしょう。

 そうなれば、私どもの身・口・意三業の行為の一切は、その有り方がどのようなものであっても差しつかえないということになります。今まで自分を縛ってきた「こうでなければならない」ということからやっと解放されて、自分や他の人のどんな有り方に対しても、坂木恵定師がよく言っておられたという言葉―「そんでええがや」という声が聞こえるようです。

 でも普段の私は、表層の自我を主体として生活していますので、法蔵菩薩が私の真実の主体であることをすっかり忘れはてて生きています。そういう私に、ふと念仏申そうと思う心が起ったときだけ(行き詰った時にその心が起こることが多いようですが)、ほんの一瞬、そのことを忘れておったということに気づきます。つまり、普段は忘れておるということさえ忘れている訳です。念仏申そうと思うとき、そのことに一瞬気づくようです。

■「そんでええがや」は法蔵菩薩の呼びかけの声だなと改めて感じています。そして念仏は、私にとってそんな法蔵菩薩の呼び声です。

■ところで、石川県出身の友達から聞いたのですが、「そんでええがや」の反対の言葉は、「そんなんだちゃかん!」「そりゃだちゃかん!」「そりゃだちかん!」だそうです。
                                  (2024年5月31日記す)

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