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(ブログNo.16)清沢満之の世界(その1)  「外物を外物と知るの心、これ自己なり」 

 その『エピクテタスの語録』の中で清沢先生が特に大きな示唆を与えられたものは、次の言葉だと言われています。

如意なるものと不如意なるものとあり。如意なるものは意見動作及び欣厭なり。不如意なるものは身体財産名誉及び官爵なり。己れの所作に属するものと、しからざるものとなり。不如意なるものに対しては、吾人は微弱なり奴隷なり、他の掌中にあるなり。この区分を誤想するときは、吾人は妨害に遭い悲歎号泣に陥り、神人を怨謗するに至るなり。如意の区分を守るものは抑圧せらるることなく、人を謗らず、天を怨まず、人に傷つけられず、人を傷つけず、天下に怨敵なきなり。

この世界には、自分の自由になるもの(如意なるもの)と、自由にならないもの(不如意なるもの)とがあります。ところが、その区別がはっきりしていないところに、我々の苦悩の原因があるとエピクテタスは述べています。清沢先生が大きな示唆を受けられたのはこの点でした。

そこで清沢先生は、何が如意なるものであり、何が不如意なるものであるかということを突き詰めて考えていかれました。清沢満之先生が「自己とは何か」ということを求道の根本におかれたことは周知の通りですが、不如意なるものなら自己とは言えませんし、自己なら必ず如意なるものであるはずです。

 では、何が如意なるものであり、何が不如意なるものでしょうか?

 つまり、我々の一切合切が何一つ自分の自由にならないものばかりです。従って、そこに自己はないのです。

 では、自己、すなわち如意なるものは一体どこにあると言えるのでしょうか? どこにもないのでしょうか?

 こう突き詰めてみると、一切合切不如意なるものの中で、ただ一つ如意なるものは、不如意なるものを不如意なるものと知ること、これだけが如意なるものです。すなわち、これが求道によって獲得出来る自己なのです。

 でも、身口意の行為は、突き詰めていけば、どんな小さな行為も、自分の自由になるものではではありません。たった今の一思いすら自由にならないのですから。

我々を苦しめる人間関係の悩みも、相手の言動も、勿論自分の自由になりません。それに対して起こる様々な自分の煩悩も自分の自由になりません。

そういう中で、我々の苦しみはどこから起こるかと言えば、自由になるものと、自由にならないものとの区別がつかず、自由にならないものを自由にしようとしているところから起こると、そう清沢先生は、自己の苦しみの原因を見つめていかれたのです。それは、由布岳を動かそうとして苦しんでいるのと同じだということになります。由布岳を動かそうとして苦しむのは愚かなことです。それは誰でも分かります。ところが、その愚かなことを、自他の言動や、それに対して反応する自分の思いに対してやっているのではないか。そう清沢先生は言われるのです。それは、自由になるものと自由にならないものとの区別がついていないのだと。 

●人間関係の苦しみも、そこから起こっているということになります。相手の言動と、それに対して起こる自分の煩悩、それはいずれも自由になるものではないのです。ならば、清沢先生が「我等は寧ろ宇宙万化の内において、彼の無限他力の妙有を嘆賞せんのみ」(『清沢満之文集抄録』24頁)と書かれているように、それに対して手出しをすることを止めて、そのままを、あたかも由布岳の自然を讃美するように讃美していく他ないのだと、そう言われるのです。

しかし、一方では、いくらそうと分かっていても、実際問題としてはやっぱり手出しをする心は止まないのが正直なところではないかと思います。でも、よく吟味してみればわかりますが、そうやって手出しをせざるを得ない心もまた、やはり自由にはならない心なのです。由布岳を動かせないのと全く同じです。そのことに頷ければ、手出しをせざるを得ない心についても、由布岳を嘆賞するのと同じように、嘆賞させていただく外はありません。つまり、安心して手出ししていけばいいということになります。

●少し話は飛びますが、安田理深先生は、隣家の失火によって、自宅、及び大事にされていた万巻の蔵書を全て焼失してしまうという出来事に遭われました。この出来事の中で、安田先生が次のように述べておられるのです。

   隣家から出火し、我が家が焼けた。責任は隣家にあるであろう。しかし火の出た家の隣に我が家があったという存在的責任は逃れられないでしょう。

(傍線は宮岳が引いたもの)

 ここに、火の出た家の隣に我が家があったということを「存在的責任」という言葉で述べられて、この責任は自分にあると言っておられるのです。こんなことは、理性や知性ではとうてい認めることが出来ない責任でしょう。

ポール・ティリッヒ(ドイツの有名な神学者)と安田先生の対談の一節が思い出されます。ティリッヒは、その責任はどこまでさかのぼるのか?と問うています。「もし私に、そういう私の出生について責任があるとすれば、この責任なるものは、前世にまでさかのぼらざるを得ません。したがって、前世の責任という問題が起こってくるわけです。」しかし、「自分の生まれる以前にまでさかのぼって、責任が云々されるのでしたら、とてもお言葉にはついていけそうもありません」と述べておられます。理性、知性から出されてくる当然の質問でしょう。

その質問に対して、安田先生は、「わかりました。サンサーラ(輪廻)ということは、神話的表現です。業が現代の我々にとって意味をもつのは…、自己が自己の存在に対して、責任感をもつということが業の意義です。輪廻というのは古代的表現です。したがって、その責任は、責任を自覚したものだけにある」と答えておられます。つまり、その責任感なるものは、客観的に存在するものではないということです。その責任を自覚したものにおいてのみあると言っておられるのです。ティリッヒは、この安田先生の言葉にいたく感動しておられるのが印象的です。(東本願寺出版部発行『安田理深集』上119頁~120頁参照。傍線は宮岳が引いたもの)。

この存在的責任というのは、私どもが、ここにこういうものとして生まれたということも、人間関係の中で理不尽な仕打ちにあって苦しむことも、更には今日多くの方々が未曾有の自然災害に遭われて苦しんでおられることも、みな含まれます。仏教では、その存在的責任を「宿業」という言葉で語ってきました。

安田先生の場合で言えば、自宅が焼失してしまったことについての客観的な責任は隣家にある。これは明白なことです。その責任を問うて物的弁償を求めること。それはこの世のこととして大事なことです。ただし、いくらそれをやっても、家や万巻の蔵書や大切な書類等が全て灰になってしまったという事実は戻ってきません。書物ならまだしも、もしも人ひとりが死んでしまったとしたらどうでしょうか。大切なその人はもう帰ってきません。そして、残された自分は、その事実の中を生きていく他ないのです。他の人が、こうなった自分の人生を代りに生きるということは絶対に出来ないのです。それが、安田先生が「存在的責任は自分にある」と言われていることの重い意味なのでしょう。

●ここで、清沢先生が言われた言葉を重ねてみましょう。

自宅が火事に遭ったということ、あるいは自然災害に遭ったということは、自分にとっては不如意なるものです。清沢先生は、「不如意なるものに対しては、吾人は微弱なり奴隷なり、他の掌中にあるなり。この区分を誤想するときは、吾人は妨害に遭い悲歎号泣に陥り、神人を怨謗するに至るなり。如意の区分を守るものは抑圧せらるることなく、人を謗らず、天を怨まず、人に傷つけられず、人を傷つけず、天下に怨敵なきなり。」と言われています。

この場合「如意の区分を守るもの」と言われていることが、「外物を外物と知るの心」ということになるでしょう。それだけが如意なるもの、即ち自己ということになります。

しかし、実際問題として、我々の遭遇する出来事の存在的責任は自己にあると言われても、そこに責任感を持つことが出来ずに心が折れてしまうのが多くの人の実際ではないかと思います。

●では、我々はいったいどうしたらよいのでしょうか?

では、「外物を外物と知るの心」が自分の心ではないとすれば、それはいったい何なのか?ということになります。

実はそれが、清沢先生が絶筆「わが信念」の中で述べておられる「私の一切の行為に就いて責任を負うて下さる」(『清沢満之文集抄録』41頁)ところの如来、「無能の私をして私たらしむる能力の根本本体」(『清沢満之文集抄録』35頁)であるところの如来です。そして、その如来は、私の外にあるものではなく、「私の信念」(『清沢満之文集抄録』30~31頁趣意)となって私の中に生まれてくださるものです。

安田先生の事例で言えば、私がどうしても逃れることが出来ない「存在的責任」の責任感そのものとなって、私の中に生まれてくださるものです。

それが「もう一人の自分」であり、法蔵魂なのです。表層の妄念の心の手の届かない深層において、一切衆生に平等に流れている法蔵菩薩の願心の発起なのです。そして、それこそが「外物を外物と知るの心」の内容だったのです。

 「難思の弘誓」とは、私どもの深層に平等に流れている法蔵菩薩の願心のことでしょう。また「難度海」の「度」とは、安田先生が述べておられるところで言えば、「存在的責任感」を生きるということになると思います。ところが、その存在的責任は、決して他の人に肩代わりしてもらうことの出来ない私自身の責任なのです。でありながら、私のような凡夫にはとうていその責任感を持つことができません。それで「難度海」、すなわち「度すことが不可能な海」と言っておられるのでしょう。

 つまり、「難度海を度す」と述べられているところの「度」とは、私のような凡夫には起こすことが不可能な心だいうことになります。従って、その「度」を為すものは、表層の私ではなく、私どもの表層の心より深い層に流れているところの法蔵菩薩の願心なのです。その法蔵菩薩の願心が、肩代り出来ない私の存在的責任の責任感そのものとなって、私の上に現れて生きてくださるのです。それが、如来が私の上に現れてくださった信心なのです。それを親鸞聖人は、「それ信楽(しんぎょう)(ぎゃく)(とく)すというは、如来(にょらい)選択(せんじゃく)の願心()り発起す」(『教行信証』「信巻」序分)と言っておられるのでしょう。また、その信心を、「難度海を度する大船」に譬えておられるのです。船だから私が歩く必要はありません。乗ればよいのです。乗れば船が乗せて行っていってくれます。

●この「存在的責任感」を親鸞聖人は、「信心を得る」といっておられるのだと思います。それは、『無量寿経』に「聞其名号 信心歓喜」と説いてくださっているように、私の深層に南無阿弥陀仏の呼びかけが届いてくださることによって、私の深いところに流れていた法蔵魂が呼び覚まされて、私の意識の上に信心となって現れてくださるということなのでしょう。それを「如来回向の信心」と言っておられるのでしょう。

―終りに―

今まで書いてきたことと重複する部分があると思いますが、「外物を外物と知るの心」について、もう少し書き加えてみたいと思います。

●では、「外物を外物と知るの心」とは、いったいどういう心でしょうか? それは、身口意三業よりも深い層に流れているところの真実心と言うべき心でしょう。従って、この心は、通常の心と区別する意味で、「魂」と言った方がよいかも知れません。私ども一切衆生の身の底に、宗教的本能として平等に流れている法蔵魂です。

●そうでなかったら、存在的責任感の自覚といっても、宿業の自覚といっても、「仕方がない」というアキラメ主義や運命主義と大して変わりないものとなってしまいます。

●私は、かつてどこかで、次のような英文を見たことがあります。その時非常な感動を覚えたのでノートの端に書きつけておいたのです。それが先日出てきたのです。それは次のような英文です。

  Will you  ever be  good enough? (ウィル ユー エバ ビー グッド イナッフ?)

 (あなたは、今までかつて一度でも、完全な満足の世界にいたことがありますか?)

 本当は、このように訳することは出来ないということは充分承知の上です。でも、私は、この英文に触れた時、このような呼びかけを感じて感動したのです。good enough(グッド イナッフ)とは、思い切って私なりに意訳すれば、「完全なる満足」、「完全なる自由」の世界ということです。私は、いまだかつて、「完全なる満足」の世界、「完全なる自由」の世界を得たことがあったであろうか? このような問いかけを感じたのです。いや!私はこれを失って久遠劫来(くおんごうらい)流転(るてん)してきたのだ。そして、これを得たくて人間に生まれてきたのだ。そういうことを感じたのです。

●そして、今思うのです。清沢先生が、「外物を外物と知るの心、これ自己なり」という言葉によって求められ獲得された世界とは、これだったのではないかと。これが、清沢先生が生涯をかけて求められた「自己」であり、「如意なる世界」であったに違いないと。親鸞聖人が、「この信を崇めよ」と言われ、また「真実の浄信、億劫にも獲がたし」と言われた「信心」も、これだったのではないかと。

  

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